南北朝合一後の北畠氏は、引き続き南伊勢地方に隠然たる勢力を持った大名として君臨します。

峰と尾根に造られた霧山城は大きく二つの郭から成っています 構造はシンプル

まず最初の郭は『鐘突堂跡』となっています もちろん戦いの際は最初に攻撃を受ける場所です

『鐘突堂跡』から見る本郭 遠すぎて互いの横矢機能はありませんが、よく見えます
天皇位が北朝系で独占されるような事態もあったので、度々幕府に反抗して戦いを起こしたりもしましたが、徐々に幕府へ恭順して行く事になります。
応仁の乱では東軍方に与していましたが、実際に京に登って戦闘に加わる事はなく、逆に戦火を逃れて頼って来た将軍:足利義視を保護していました。
その足利幕府の統制が効かなくなり、日本中が戦乱に包まれる様になると、当主の北畠晴具、続く具教は戦国大名として積極的に勢力拡大に乗り出します。

『鐘突堂跡』から本郭へは馬の背の尾根道で繋がります

本郭の虎口です

本丸内 意外に先客が居ました
詰め城ですから必要最小限でしょうが、北畠氏の規模からすると、狭く感じます
そして長年の風雨に表土が流れ出て、傾斜面になっています

本丸に隣り合う『米蔵跡』と呼ばれる郭

そして反対側の『矢倉跡』と呼ばれる郭
まず小豪族が蟠踞する南の志摩・東紀州を勢力下に収めると、次は西の大和・伊賀に侵攻します。
最後は北の長野氏を屈服させて支配下にすると、関氏(神戸家)にも養子を入れて、事実上の配下としました。
残る伊勢の勢力は北伊勢一円の北勢四十八家(HKS48)だけですが、この時点で北勢には近江の六角氏が影響力を広げており、伊勢でも伊賀でも六角氏との激突は避けられない様相になっていました。

最大版図と思われる1560年頃の北畠領 伊勢、志摩、紀伊、大和、伊賀にまたがり、60万石ほどは有るでしょうか
しかしその時、この両者の間に割って入って来たのが織田信長です。
信長は近江・伊勢の二方面の作戦を同時に進め、滝川一益に命じて伊勢に侵攻する傍ら、近江へは上洛軍として乗り込んで、一気に六角氏を破って上洛を果たします。
一方の伊勢の戦線は頑強な抵抗に遭って苦戦しますが、攻城と懐柔を織り交ぜた作戦で、まず関氏(神戸家)に三男:信孝を養子に入れる事で和睦を果たし、次に長野氏には弟:信包を養子に入れて傘下に収めます。
そして最後は北畠氏との直接対決となるのですが、北畠具教から家督を継いでいた具房は絶対的な不利を顧みず、本拠を霧山城から平地の大河内城に移し、ガチンコ勝負を挑みます。
南朝を支え、長年に亘り南伊勢を守り通して来た名門:北畠氏の意地を感じますね。

本郭から見る『鐘突堂跡』

本丸と『矢倉跡』は深い堀で遮断されてた様です

本丸に建つ城址碑
先客のお二人が此処で休憩中でしたが、写真ポイントでもあるので、他を見てる間に自然な形で場所を空けてくれました。 やっぱり日本人ってイイですね。
4月に始まった戦いは緒戦から有力な分家の木造具政の寝返りもあり苦戦しますが、阿坂城、坂内城、大河内城と激戦続きで膠着し、10月に入って足利義昭の調停で和睦となります。
和睦の条件は、信長の二男:信雄が養子に入る事でしたが、実権はまだ北畠具教・具房が持ったままの同盟関係でした。

本郭から見る西方面

同じく、東方面 どこを向いても山ばかりです
しばらくは円満に推移した両家でしたが、将軍:義昭の暗躍が始まると具教がこれに乗り、武田信玄とも親交を結んで“信長包囲網”に加わろうとします。
この動きは信長の知る所となり、激怒した信長は信雄に命じて密かに刺客を送ります。
大台の三瀬に隠居していた具教は幼い息子二人とともに殺害されてしまいました。
同様に刺客は霧山城や坂内城、田丸城などにも送られ、北畠氏の主立った一族は一人残らず惨殺されて、北畠氏は名実ともに織田氏に乗っ取られてしまいました。

居館跡の北畠神社に建つ伊勢北畠氏初代:顕能公の歌碑 辛労の様が判りますね
6年後、本能寺の変で信長が斃れると、家督を狙った北畠信雄は織田姓に復姓したため、北畠氏は正式に滅亡しました。
剣豪大名だった北畠具教
北畠具教は剣術が大好きで、修行の旅をする剣客を呼んで保護し、援助していたそうです。
その一環で自身も塚原卜伝から直々に剣を学び、奥義“一の太刀”を伝授されたといわれます。
他にも北辰一刀流:上泉信綱、新陰流:柳生宗厳とも親交があったそうです。

北畠具教画像 北畠氏の家紋は笹竜胆ですが、割菱(武田菱と同じ)も使われました
そんな剣豪武将の具教ですから、織田の刺客に襲撃された時も剣を取って戦い、19人を斬り殺し100人に手傷を負わせたという話が伝わっています。
さすがにオーバーだと思いますが、将軍:足利義輝にも同様な話がありますし、剣術を嗜み、実際に強い大名は多かったのでしょうね。
おわり