伊勢国最大の戦国大名だった北畠氏の居城:霧山城に行ってきました。
 
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 北畠氏に関しては、一昨年10月のブログで詳細に書いたので今回は端折りますが、南朝勢力の中心人物だった北畠親房の三男:顕能後醍醐天皇から伊勢国司に補任され、南伊勢に勢力を張った事に始まります。
*長男:顕家、二男:顕信は北朝軍との争乱で戦死していますから、実質嫡子です
 
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旧街道で多気へ こんな難所が続きます
 
 初期には伊勢神宮に近い田丸城を本拠に北朝軍と戦った北畠氏でしたが、徐々に戦力的に劣勢になって行き、防戦主体の戦いになると本拠地を伊勢本街道沿いの山間の地:多気に移します。

 

 “公家大名”の北畠氏は、わずかに拓けた平地に後に“多気御所”と呼ばれる居館を構え、背後の山上には今回登城した詰め城の“霧山城”を築城しました。
 
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多気御所跡の遠景 中央後ろの山上の木立が薄くなってる部分が霧山城址です
 

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多気御所(居館)跡は北畠神社になっています
 
 ここを拠点に北畠氏は劣勢な戦力ながら北朝勢と上手く戦いました。
南朝の伊勢国司:北畠氏に対し、北朝側(室町幕府)も伊勢守護を置き、畠山氏、仁木氏、土岐氏など順次送り込みますが、伊勢13郡のうち守護が支配できたのは最大で2郡のみの、南朝の圧勝でした。
 その結果50年以上も南朝を維持した上で、ほぼ対等に近い形での合一(合併)に漕ぎ着けています。
 
『北畠氏所領と支城群』
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 北畠氏は国人を取り込み、分家や家臣を南伊勢・志摩の要所に配置して行きます。
霧山城のある多気はかなり内陸の狭い谷間にあり、支配拠点としてはすこぶる不便に感じますが、東西南北に街道が通じる要衝でした。
 
 すべての街道は急峻な峠道や深い谷底道の連続であり、大軍の襲来をゲリラ戦法で撃退するには最適の地と言えます。
 
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神社の脇に登山口(大手)があり、ここから気合いを入れて登って行きます
 
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下に多気御所の庭園が見えます 日本三大武将庭園だそうな
 
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山上の霧山城までは約1.5㎞の道のり 登城路はどんどん角度を増して行きます。
 
 此処を通る伊勢本街道は、東は伊勢神宮に、西は南朝の御座所である吉野に通じています。
この配置でピンと来るのは、同様に山深い吉野の朝廷を維持する為の兵糧・物資は、殆んどが伊勢平野の穀物や志摩の海産物だったであろう事。

 

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400m地点にある小郭“詰め城” 初期の詰め城だったのか? 第一段階の退避場所だったのか?
 
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背後への備えも有って独立した城にも見えます 城下を物見する機能だったのかも知れません
 
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此処からは多気の城下が見渡せます 
狭い谷間のスペースながら、3,500戸もの民家が立ち並んでたそうです。此処に住んだ家臣は1,000名ほどで、北畠家臣団16,000名(最盛期)の一割にも満たない数でした
 
 南朝といえば華々しく散った楠正成や新田義貞が忠臣として評価されていますが、実は永年に亘る北畠氏の経済力と兵力の下支えなくしては成り立たなかったのです。
 
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良く手入れされた杉の樹林を延々と登り…
 
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本当に延々と登り続けて…
 
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広葉樹が混じる様になってくると…
 
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やっと霧山城の郭らしきものが見えて来ました
 
 
 
≪後編≫につづく