南部家といえば奥州の戦国大名の南部家を思い浮かべますが、南部家は甲斐源氏の一族で、甲斐国巨摩郡の南部郷に定住した事から南部氏を名乗りました。
 
   鎌倉初期、源頼朝の奥州征伐に従軍した南部氏は、恩賞として陸奥国糠部五郡を与えられた事から、南部氏の多くは奥州へと向かい、新たな広大な領地を分割して定住し、多くの分家が出来ました。
 しかし甲斐の旧領もそのままだった為残る一族も居り、今回の伊勢の南部家もその一部と考えられます。
 
イメージ 1
八戸(根城)南部氏 南部師行像
南北朝の騒乱では北畠顕家に従って西上し、主力として活躍して南部氏の名声を一気に高めました
 
  鎌倉末期の騒乱の時代になると、南部氏でも三戸南部氏の様に鎌倉御家人として佐幕に勤しむ家、甲斐南部氏の様に坂東の源氏勢力として新田・足利に従う家、そして八戸南部氏は勤王を旗印に後醍醐帝の意向に従い、敵味方に分かれて争う事になります。
 
 それは南北朝の合一まで続きますが、南朝方の旗色が悪くなるに連れ、北朝方に転じる家も増えて行き、足利幕府の体制に徐々に組み込まれて行きます。
 
 南朝の本拠地のひとつだった伊勢では、新守護を支える新たな勢力が必要とされ、幕命で多くの武士が移住して来ますが、伊勢南部家も同様に信濃国の松本もしくは野沢郷(佐久市辺り?)から移って来たんだそうです。
 どちらが正解かといえば、どちらも血縁の小笠原氏、平賀氏の勢力圏ですから微妙ですが、文安3年(1446)の事と伝わっています。
 
イメージ 2
 
南部氏は分家・支族の多い一族で、それぞれに伝わる家系図にも相違点が多く、専門家でも断定できるものがありません。
幾つかの家系図を参考にダイジェスト的にまとめたものですから、イメージ程度に捉えて見てください。
 
 
 伊勢に移った初代は南部修理太夫頼村と言い、南部氏の嫡流(江戸時代には盛岡藩20万石となる)三戸南部氏の系統である事が系図から判ります。
 頼村が赴任したのは朝明郡の富田郷で、それまでは伊勢平氏の末裔の富田家資が居館を築いて統治していましたが家資の死で富田家が断絶したが故の招聘となったのでしょう。
 

 

イメージ 6
南部家の領地範囲(予想)
周辺の諸家と円満の関係を築いた南部家の富田城が戦乱に晒される事は無かった様です。
茂福家と赤堀家の戦い(茂福合戦)では茂福家に与力し、茂福城に籠城し戦いました。
 
  頼は富田館跡に富田城を築いて統治します。
領地は東富田村西富田村・富田一色村・松原村などだった様ですが、5代120年余にわたり、神仏を尊び、殖産振興に努めるとともに、近隣の茂福家、蒔田家、春日部家との関係も良好に維持したため領民の暮らしは平穏で、慕われる領主だったそうです。
 
 しかし1568年(永禄11)南部家5代目兼綱の時に、織田信長の伊勢侵攻が始まります。
兼綱が抗戦の途を選んだため富田城は落城し、兼綱は自刃して伊勢南部家は滅亡しました
富田城はすぐに廃城となりますが、兼綱の孫忠次、忠明は仏門入る事で赦され、伊勢南部家の血脈は繋がりました。
 
 
富田城現況
 伊勢南部家の拠点:富田城は、現在の近鉄富田駅前東側の一帯に在った様です。
 
イメージ 3
近鉄富田駅東口界隈
この方向に富田城がありました。
 
 場所が特定できないのは、繁華な地域で開発が進み、近世の早い段階で遺構の一切が失われてしまってる為で、駅前にある富田幼稚園と富田小学校の一帯が城域と言われていますが、それを顕わす碑や看板等は一切ありません。
 
イメージ 4
富田幼稚園
周囲との高低差はまったく無く、平城であった事のみが判ります。
 
 しかし学校のまとまった用地を取得出来ると言うことは、市街の中にも何らかの空地が残っていたに相違ありませんから、辻褄は合いますね。
 
  富田城の名残として、富田幼稚園のグラウンドに古い銀杏の木が残っているそうなので、確認に行きましたが、残念ながら500年の歴史を刻んでる様には思えませんでした。
 
イメージ 5
城内にあったと伝わる銀杏の古木
老木で養生しながら守られている様ですが、イメージしていた大銀杏とは違いました
 
  地元の地籍図から読み解くと、南に隣接する茂福城に形状が類似していたという話も伝わっています。