最初は朝倉家です。
伊勢朝倉氏の起こりは越前朝倉氏のもとに居た平貞冬という人物が、応永年間(1394~1428)に伊勢に移住して来て土着し、朝倉氏を名乗ったのが始まりだそうです。
この頃の越前では守護:斯波氏と守護代:甲斐氏の勢力争いが激しくなっており、越前朝倉氏は甲斐氏に加担していました。
平治の乱では平氏に味方した朝倉氏(越前)ですから、平氏の残党の食客が家臣団に居たとしても不思議ではありません。
戦乱の佳境に伊勢に移ったのは解せませんが、朝倉を名乗るという事は“離脱”ではないのでしょう。

北陸の雄:朝倉敏景
朝倉のもとから伊勢へ移住し、朝倉を名乗った平貞冬ですが、血縁はなかった様です
南北朝の合一後も、北畠氏を中心に不穏な動きの絶えなかった伊勢ですから、幕府の援軍の形で赴く武士が多かったので、朝倉家もその一部と見ていますが、平貞冬は平安中期に活躍した平惟茂の子孫と言われ、伊勢平氏と同じ桓武平氏の流れですから、伊勢に何か伝手があってノミネートされたのかも知れませんね。

伊勢に来た朝倉家は繁栄した様で、戦国中期には保々西城と市場城の朝倉家、中野城の中野家、茂福城の茂福家に分かれていたものの、互いに連携し、近隣の諸家とも協力して、朝明郡をほぼ掌中にする勢力を構築していました。
十楽ノ津(桑名湊)の権益をめぐる伊勢長野氏と近江六角氏の争いでは長野氏側に付き、六角氏の大規模な侵攻を受けて敗れはしますが、勢力を大きく損じる事なくその後の織田信長の侵攻を迎えます。

織田信長は永禄十年(1567)八月と翌十一年二月の二回に分けて北伊勢に侵攻し、桑名郡、員弁郡の諸家はさしたる抵抗もなく降伏臣従しますが、朝明郡、三重郡の諸家は頑強に抵抗して戦いは硬直したそうです。
最後は信長が諸家を支援していた関氏一族の神戸友盛と和睦して、信孝を養子として入れる事で北伊勢の支配に成功します。

『真田丸』より 滝川一益
織田軍の北伊勢侵攻は主に彼の手で行われました
この過程で朝倉一族で市場城、西保々城の朝倉家と中野城の中野家は戦って滅亡した様ですが、それがどの時点の戦いだったのかは判っていません。
また、茂福城の茂福家は、信長と神戸氏の和睦後も生き残って織田軍団に編入されてた様ですが、友盛と信孝の神戸氏内の内訌の中で常に友盛寄りであった為か、信長の意思で滝川一益の手によって伊勢長嶋城で暗殺され滅亡しました。
朝倉家の城を歩く
今回は4城のうち茂福城と保々西城を訪ねてみました。
茂福城
茂福(もちぶく)城は平貞冬が伊勢に来て最初に築いた城です。
最初に定住したのはこの海に近い場所で、此処に貞冬を必要とするニーズがあったのですね。

茂福城址へ行くには東名阪道の四日市東ICで降り、右折して東に向かいます。
4車線の広い真っすぐな道路が四日市港まで続いていますが、この道路は近年に四日市港築港に際して土砂を運ぶ為に造られたものだそうです。
この道路が近鉄大阪線の線路を跨ぐ辺りが茂福城址だと言われており、道路建設にあたっての発掘調査では、大量の土器、土師器、陶器の類が発掘されたと言います。

この辺りはもう真っ平らな平地ですから、掻揚げ土塁と堀を幾重かに配した平城でしかあり得ないのですが、市街化が進んでいて、現在に残る遺構としては、本丸北西隅の土塁址と言われる土盛りが線路わきに僅かに残るのみで、茂福城址の看板が立っています。
土塁上には最後の城主:茂福掃部輔盈豊の銘の石碑がありました。

応永年間(1400年頃)に茂福城を築城した朝倉家ですが、その後は朝明川に沿って内陸部へも進出して、市場城、保々西城を相次いで築き、朝倉家嫡流はこちらに移って“備前守家”を名乗り、茂福城に残った家(下野守家?)は茂福家に改称しています。
しかし朝倉一族としての繋がりは強かった様で、永禄三年(1560)茂福家が南隣の赤堀家と戦った『茂福合戦』では一族で与力して茂福家側が勝利しています。

永禄十年(1567)からの織田信長の侵攻では、果敢に戦うも最後は降伏し、以後は滝川一益の軍団に編成されて織田家の戦いに転戦しました。
しかし、当主の茂福盈豊は一益に馴染まず反抗的だった為、長島城に呼ばれた上で惨殺され、茂福城は滝川勢に襲撃されて落城します。

伊勢朝倉家はこれで滅亡しますが、茂福城には滝川家臣の山口重政が城代で入り、暫く存続した様です。
廃城の時期も定かではありませんが、山口重政は茂福城主として豊臣期の織田信雄に仕えていますから、本多忠勝が桑名に入る関ヶ原直後までは存続してたのではないかと思われます。
後編 保々西城 につづく