314年前の元禄15年(1702)、改易となった赤穂浅野家の旧臣47名が未明に旗本吉良家の江戸屋敷に押し入り、当主の吉良義央を殺害した事件です。
城ある記からは離れますが、この事件についてはとても重要な事実が考慮されないまま評価されてる気がするので、敢えて取り上げます。

事件の背景には元禄14年の春、赤穂藩主の浅野長矩が江戸城中において旗本の吉良義央に斬り付け、軽傷を負わせた事に始まります。
江戸城中での抜刀刃傷はご法度で、浅野長矩には即日の切腹と浅野家の改易が言い渡されますが、一方の吉良義央には何のお咎めも有りませんでした。(一方的な被害者だから当然かも)
しかし吉良義央という人物は何かと癖のある人だった設定で、浅野長矩は強い遺恨を持った末の凶行と言われています。
事の真相は別として、一般世間には旧臣達が改易・浪人の艱難辛苦を乗り越えて集い、見事に主君の仇を討った義士という風に受け取られ、その後の数々の戯曲や歌舞伎、小説で感動的なストーリーが加えられて、今日の年末恒例『忠臣蔵』の物語となっています。
近年には逆説的な主張も出て来ていますが、多くの人は“強欲で老獪な吉良が若く世間知らずな浅野を虐めた”といった“同僚の内輪喧嘩の結果”みたいな印象を持っていると思います。
実際にドラマでも『喧嘩両成敗』といった言葉も出てきますしね。
しかしこの当事者の二人、本当に同レベルで比べて良い位置付けの人なのでしょうか?
まずは経済背景を見てみましょう。
官職と職位名

・浅野内匠頭長矩 … 播磨赤穂藩藩主 5万3千石
・吉良上野介義央 … 徳川将軍家旗本 4千2百石
外様大名の浅野家は石高で吉良家の12倍ですね。
長矩の官職:内匠頭(たくみのかみ)は宮都の内匠寮の長官の職位です(実際の仕事は違いますけど)
義央の官職:上野介(こうずけのすけ)は上野国司(かみ)を補佐する次官(すけ)の職位です。
なんか一見は、経済・軍事・職位的にも、浅野長矩に相当にアドバンテージが有りそうですね。
次に格付けの序列ともいうべき位階です。
・浅野内匠頭長矩 … 従5位下
・吉良上野介義央 … 従4位上
あれ? 義央の方がなんと5段階も上位のランクです。
この差って、広島50万石の浅野本家の当主(従4位下)よりも上ですから、これは逆転不能な絶対的な格差です。

なんでこうなるのか?といえば、上野介という職位のマジックで、上野、上総、常陸の三国は昔は天皇の親王(皇子)が直接支配した“親任国”でした。
ですからTOPは親王となり、上野守(かみ)という職位はなく、上野介が最上位の大国の国司(従四位下)相当の人の職位なんです。
更に、義央は確かに17歳の時に侍従兼上野介に叙任していますが、39歳の時に左近衛権少将に昇進していますから、事件当時62歳の義央が“上野介”で伝わっている事には後世の諸作家の強い恣意を感じますね。
つまり吉良義央という旗本、本来は50万石以上の大大名として遇されても良い人なのですが、領地の内政よりも幕府の国政に専念する為、旗本として江戸に常住していた重要な人物という見方が出来る訳です。
では、そもそも吉良家とはどういう家柄で、なぜ徳川家に厚遇されたのでしょうか?

鎌倉、室町と二度の幕府は源義家の子孫が起こしています。
当時の直近の幕府は室町(足利)幕府であり、その足利氏の家系に吉良氏は居ますから、将軍になってもおかしくないサラブレッドの家柄なのです。
徳川家康は幕府を開くには源氏の子孫でなければならない為、新田氏の家系にある得川氏の子孫と称しました。
それには正統な源氏の子孫の同意が必要な為、吉良氏は殊の外大事にされ、旗本でも特に高貴な“高家旗本”として厚遇されました。
吉良義央の場合、特に朝廷との連絡役の使者として活躍し、計24回も上洛して天皇に拝謁しています。
朝廷の技倆に明るく、知性と交渉力に優れた人物像を証明する回数実績ですね。
さて、刃傷事件の真相推理です。
幕府は毎年年賀の使者を朝廷に送り、この時も吉良義央が行きました。
朝廷はその返礼にお公家さんを使者(勅使)に送るのが慣例なのですが、そのお公家さんの接待役を仰せつかったのが浅野長矩でした。
この勅使饗応役には宿舎の整備、飲食の献立、高価な手土産の購入など莫大な費用が掛かる為、幕府は外様の5万石前後の藩を蓄財防止の賦役として指名しています。
幕府も体裁があるので、接待内容に関して高家旗本を“指南役”として付け、チェックさせます。
その指南役が吉良義央だったのです。
赤穂浅野家は20年前にもこの役を務めており、その際の接待を基準に準備したのでしょうが、こうゆうモノはどんどん派手になって行くのが世の常で、その目的から幕府も歯止めは掛けません。
当然前年の実績が基準になる訳です。
指南役として浅野家の準備状況を聞かされた吉良義央はその乖離に唖然としたのでしょうね。

義央にすれば幕府を代表して来ていますから、何としても前年並みでは準備して貰わないと沽券に係わります。
それに5ランクもの位階の差ですから、口調は主従に近い厳しいものになった事でしょう。
一方の浅野家は経済的に楽な状態ではなく、“軽く済ませたい”のは判りますが、言い換えれば『幕府の面子vs一藩の懐事情』のせめぎ合いです。
この事件の真相とは、『強い指導をする教師に反発するデキの悪い生徒』の構図に似てたのではないでしょうか。