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 自宅の近くで借りてる約百坪の家庭菜園です。
こちらは古民家の菜園と違い、夏野菜を中心に日々世話のできる、手間の掛かる野菜を作付けしていますが、この時期は白菜、大根、玉葱、春菊、水菜などの冬野菜に衣替えをしています。
 
え? お城の話題ではないの?と不審に思われるでしょうが、実は上の写真の奥に見えてる小さな森が
 
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という事なんです。
 
 『若菜城といっても一般に知られたメジャーな城ではなく、しかも鎌倉初期の城址ですから、小規模な無名の城址には違いありません。
 しかし、この城址を詳しく調べて行くと、意外にも鎌倉幕府を揺るがす大事件の起きた場所だった事に驚きました。

 

   若菜城の城主は若菜五郎盛高といいます。
の名を聞いてピンと来た方はさすがです。
そう1204年に起きた三日平氏の乱の主役ですね。
 
   若菜五郎盛高の父は平忠光で、そして祖父は伊藤忠清です。
藤忠清と言えば平清盛の側近中の側近で、大河ドラマにも出て来るので、一気に身近に感じます。
 
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大河ドラマ清盛』より伊藤忠清 藤本隆宏さんが演じていました。
この人、真田丸にも出てるし、坂の上の雲の廣瀬武夫も名演技でした。歴史ドラマに欠かせない名わき役ですね。
 
 忠清は清盛の父:忠盛の頃から平家に仕え、平家の軍団長的な立場にありましたが、清盛の子弟の平家の公達が公家化して行く事に業を煮やして清盛と衝突し、関東へと左遷されていました。
しかし、平家が一の谷→屋島→壇ノ浦と源氏に追われる間に地盤の伊勢で挙兵します。(伊勢平氏の乱)
 
 この戦いは激戦いの末、鎌倉方(源氏)が勝利して、忠清は捕えられ京六条河原で処刑されるのですが、もともと平家発祥の地だった勢での平氏の潜在勢力と源氏政権への不満は根強く残り、二十年後に忠清の孫の若菜五郎盛高による挙兵となります。
 
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『東海道の名所のひとつ大岡寺畷から見る小野の台地』右手の森の上に小野城と前身となる若菜城が築かれました。
 
 その背景には源頼朝の死とその後の御家人の勢力争いによる鎌倉幕府の混乱がありました。
の反乱軍は伊勢守護:内首藤経の館(場所は不明)を襲い、鈴鹿峠を閉鎖しますが、京都守護:平賀朝雅の追討軍が迫ると、鈴鹿郡小野の地に城塞を構えて籠ります。
 攻防戦は三日間に及んだ末に、盛高は討死にし鎮圧された事から三日平氏の乱と呼ばれています。
 
 この城塞の跡が若菜城とされてる様ですが、鎌倉初期の城ですから、一重の堀を巡らした城館であった可能性が高いと思われます。
 土地の人の話によると、後に盛高を祀る神社が建てられ、護られて来た様ですが、明治になっての神社の集約で近くの布気神社に合祀された後に、地元の名士若菜さん(子孫であるかは不明)が買い取って自費で整備し、城址碑を建てられたのだそうです。(現在は代も替わり荒れ果てていますが…)
 
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旧東海道と思われる、台地への登り道』国道1号線(東海道)へと繋がります
 
 乱が平定した後のこの地には、鎌倉御家人の中から伊勢平氏の支族である関氏が地頭として赴任し支配します。
 中でも関氏の三家老(葉若、岩間、小野)のうちの小野家は若菜城址の周辺に領地を与えられ、屋敷を構えて住んだ様です。
 
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小野城周辺の空撮』鈴鹿川に注ぐ小野川が作った舌状台地の尖端で、崖端城の適地なのが判ります。
台地上は広いので、城域の特定は難しいのですが、地形からも残存遺構より右側の一帯であった可能性が伺われます。
江戸期の東海道は鈴鹿川添いに大規模な堤防が築かれ、その上を通っています(大岡寺畷)が、中世の東海道は台地添いにあって、一部はこの小野の台地も通っていた模様です。
そう考えると単なる戦略上の支城だけでなく、街道を扼す関所という城の機能も見えて来ますね
 
 関氏は鎌倉~室町期を通してこの地に根を張っていますから、その後期の戦乱の世になると、小野家も館の周囲に亀山城の支城となる“小野城”を構築した様です。
 
 
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我が家の菜園から見た小野城址の遺構が残る山林』
個人の私有地なので、あまり堂々とは入って行けないのですが、ちょっとだけ失礼して見せてもらいます
 
 
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小規模ながら掻き上げ土塁と空堀の痕がハッキリと残っています
 
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堀は竪堀となって谷底へ落ちて行きます 戦国期の城の特徴ですね
 
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武者溜まりと思われる平場もあるので、此処が虎口だったのかも知れません
 
 関氏は戦国末期には蒲生氏郷の与力となって、共に奥州会津に去ったためこの時、小野城も廃城になったものと思われます。
 その後遺構の殆どは耕地化で失われていますが、一部が現在に残り、山林に埋もれながらも静かにその姿を留めています。