三重の城探訪  田丸城  登城日 2016.10.30
 
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 城郭構造   平山城
 築城主     北畠親房
 築城年      建武3年(1336)南北朝期
 主な城主    田丸氏、北畠氏、織田信雄ほか
 廃城年      明治初期
 遺構        堀、石垣、門、御殿(一部)
 指定文化財 三重県の史跡
 所在地     三重県度会郡玉城町田丸字城郭
 
 田丸城のある玉城町田丸は、伊勢参宮街道から熊野街道が分岐する場所であり、古くから宿場町として賑わっていました。
 此処に初めて城を築いたのは、南朝の中心人物とも言える北畠親房で、標高50mほどの丘の上に城を築くと、重臣の愛洲氏を置いて、吉野を守る拠点のひとつとしました。
 
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北畠時代を彷彿とさせる北ノ丸土塁
 
 南北朝合一後も南伊勢は北畠氏の領地となったため、愛洲氏が引き続き城主を務め、愛洲忠行のときに国司:北畠政郷の子:顕晴を養子にしたため北畠一族に列せられ、名を田丸氏と改称します。
 田丸氏にはその後も北畠から養子が入ったため、家格もどんどん上がって行き、田丸城は別名:田丸御所とも呼ばれていたそうです。
 
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北ノ丸下の水堀も戦国初期の匂いがします
 
 田丸直昌が当主だった天正3年(1575)、北畠氏は織田信長の侵攻に屈して、信長の二男:信雄を養子に受け入れ、乗っ取られてしまいます。
 信雄は当初は北畠氏の居城の大河内城に入りますが、山間の山城で何かと不便なため、田丸城を居城としたため、田丸直昌は岩出城へと移動し明け渡しました。
 信雄は田丸城を大改造し、天下人の織田一族に相応しい堅固な石の城郭を造り上げ、三層の天守閣も上げたそうです。
 
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日本城郭大系より 田丸城縄張り図
 
 天正8年(1580)、田丸城は家臣の放火による火災に見舞われ、天守も焼け落ちてしまいます。
すると信雄は田丸城を再建する事なく、伊勢湾に面した松ヶ島に新城を築いて移ってしまいました。
 一旦は放棄された田丸城ですが、天正12年(1584)、豊臣秀吉により南伊勢の地が蒲生氏郷に与えられると、氏郷は松阪に新城を築き、田丸城も復活させて、その与力となった田丸直昌を城主に復帰させます。
 
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織田信雄によるものか 味わいのある野面の石垣
 
 天正18年(1590)、氏郷が会津若松に転封になると、田丸直昌も同行して田村城主となり、田丸城には稲葉道通が入って天守閣などを再建します。
しかし、大阪の陣の後は一旦は津藩の藤堂高虎に与えられるものの、5年後には紀州徳川家の領地となり、付家老の久野家が代々城代を世襲して明治に至りました。
 
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地階層を持つ天守台 天守建物のシルエットが足場パイプで組まれていました
 
 稲葉道通が再建した天守閣は、天守にうるさい幕政を反映してか、使用も補修もされる事なく放置され、慶安2年(1649)の暴風雨で倒壊すると、破却されたそうです。
 
 
つづく