『秀吉への忠義に生き忠義に殉じた』
西軍 石田三成 40歳
領地 近江佐和山 19万3千石
参加兵力 6,900
関ケ原後 捕縛斬首 改易
いよいよ最後の石田三成です。
三成については関ケ原の主役で有名人でもあり、わざわざ『三献の茶』から入る事もないと思うので、一気にスキップしますね。

【石田三成画像】
近江の土豪の家に生まれ、秀吉が長浜城主になった際に、父、兄とともに現地採用されました。
寺の小坊主ではなかった様ですね
豊臣秀吉が天下人となって以降、最も信頼した家臣が石田三成でした。
三成が他の家臣と違うところは、頭脳明晰なのは前提としても、秀吉の意思を最優先にしてやり遂げようとする所だと思います。
何よりも象徴的だったのが“秀次事件”です。

ウォーキングは最後の目的地、松尾山の石田隊陣跡へ向かいます
『秀次に謀反の疑いあり!』という事で秀次を尋問詮議したのが三成でした。
この前年に秀頼が生まれて、関白を秀次に譲ってしまった事を内心悔いた秀吉の刺しがねなのは言うまでもありませんが、秀次は結局クロと判定され、高野山に蟄居ののち自刃させられます。

石田隊の前の平坦地が最大の激戦地だった様で、『決戦地』の碑があります
皆さんもうさすがに疲れ切っていますね(^^;
三成は以下の事を勘案して結論を出さなければいけなかったと思います。
1.秀吉は実子の秀頼が将来関白となれる様、生前に道筋を付けておきたかった。
2.秀次に関白としての落ち度はなく、諸大名の信頼も増して来ており、秀吉死後の秀頼の
扱いには懸念もある。
3.豊臣近臣の眼から見ても幼い秀頼は不透明で、秀次政権での繋ぎが必要。
4.秀吉の晩年はボケがひどく、まっとうな判断が出来てないのは周知の事実。
こんな状況下で三成は間を採るのではなく、秀吉の意思の実現のみに集中した結論を出してしまっています。
判りやすく例えれば、昔、黒田官兵衛が有岡城に囚われたとき、織田信長は“裏切り”と即断し、人質の嫡子の処分を命じました。
もし秀吉の軍師が竹中半兵衛でなく、石田三成だったら黒田長政はこの世に居ないという事です。

松尾山に着くと、石田鉄砲隊の演武が始まっていました。『弾こめ~っ!』
関ヶ原の戦いは、その戦闘の多くは実は鉄砲による銃撃戦だったのだそうです
秀次の死は徳川家康に消えていた希望の灯をまた点けてしまうのですが、三成にとって豊臣政権は、秀吉自らが一代で築いたものであり、どんなに近い親族が権力を持とうと、何より優先されるのは秀吉の意思であり、秀吉の言葉は絶対の重さがあったのでしょう。
晩年の秀吉には確かに酷い命令が多くありますが、それとて自分が汚れ役になってでも通してきたのが三成で、“太閤殿下に身命を賭して仕える”事こそが大義だったのでしょうね。

持ち込まれた鉄砲の数は東西あわせて3万丁。『狙え~!』
この数は当時の先進国ヨーロッパ全土で保有する数とほぼ同じだったそうです。
秀吉の余命が見えて来ると、後継ぎの秀頼を中心とした豊臣政権を維持する為の法令・制度が作られ、維持する体制として、五大老・三中老・五奉行・十人衆の執行官が決まります。
これにも三成は深く関わっていたと思われ、法案・裁定案を奉行が作り、大老・中老の合議で決裁する、“奉行が中心の政治”です。
大老には大大名が名を連ねていて、武力の分散がなされ、文治派の三成達が政策の実権を握る…いわゆるシビリアンコントロールの体制です。
やはり、これも三成の義だったのでしょう。

す、凄い轟音ですが、という事は日本中には一体何丁の鉄砲が有ったのでしょうか?
道理で植民地化を諦めたわけですね(^^;
しかし、いざ秀吉が死ぬと、今まで秀吉の権力にひれ伏していた諸大名の中で、抑圧されてたモノが一気に噴き出して来ます。
やはり武士とは、戦乱の中で武功を挙げて恩賞を得て、より良い明日を勝ち取って来たため、不満は自ずと戦いの場・倒すべき相手を求めがちになります。

最後の力を振り絞って、三成の陣所に登って行きます。
ここは段々に陣城が造られています。
そこを上手く利用したのが徳川家康で、筆頭大老の地位を利用して不満を持つ大名に加増するなどの恩を与え、手なづけて行きます。
合議制といっても、前田利家が居なくなると家康の独壇場で、口下手な上杉景勝、少し弱い毛利輝元、若い宇喜多秀家、前田利長は太刀打ち出来ません。
そうすると、法を守らせようとする奉行達が矢面に立つのですが、文治派には力づくで守らせる武力はありません。

その頃になるともう諸大名の多くは法などどうでも良く、その根源の豊臣秀吉など眼中にありません。
ただただ現状を変えようとする徳川家康に付いて行き、少しでも多くの武功を挙げて、より良い明日を迎えようとする欲に駆られた輩の集団です。

そして関ケ原。
家康のやり方を“不義”とする上杉景勝の旗上げに合わせて、三成も兵を挙げます。
豊臣政権の存続を賭けて集まったのは、10万を超える大軍でしたが、中には大勢を読み切れずに参陣した武将も多く居そうです。
『義で動くのはこれだけか…これは無理かな?』と思いつつ、最後の一手で“豊臣の旗”を使う事を大阪城に打診しますが、拒否されてしまいます。

しかしこれは“今日の平和を謳歌するのみで危機意識を持たない大阪城”からは予想された事で、三成としては『自分亡き後の豊臣家への責任がなくなった…』と捉えた事でしょう。
この後は亡き秀吉の意思に応えるべく最大限に戦うという“最後の義”だけで、“負けが許される戦い”になった訳ですね。

思えば、若年から知性を活かして秀吉の為に一心不乱に働き、秀吉が老いたらその不徳を一身に背負い、死して後も秀吉の意思の実現に命を賭けた石田三成。
忠臣と言えども、これ程の忠臣は居ないと思いますね。
関ケ原陣跡ウォーク 完