『不運と迷い そして窮鼠の決断』
西軍?   島津義弘 65
領地    薩摩鹿児島 73万石
参加兵力  1,500
関ヶ原後  本領安堵
 
 
 島津家は家中の団結が強く、かつては当主:義久と弟の義弘、歳久、家久の四兄弟の鉄の結束で、九州の大半まで領土を広げた薩摩の名です。

 

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島津義弘画像
関ケ原ではもう老境でしたが、九州を代表する戦国武将です
 
 秀吉の九州征伐で降伏し、元の薩摩、大隅2ヶ国のみ安堵されましたが、その仕置きに対しては家臣や親類筋の不満が大きく、降伏した主への不満となって、国内は不穏な状態が長く続きます。
 
 その為、義久は常に国元に居る事を余儀なくされ、大阪への出仕など豊臣政権との付き合いは弟の義弘が一手に引き受けていました。
 秀吉もまた是を巧みに利用し、義弘を当主扱いする事で、兄弟の結束を乱そうとしていたフシがありますね。

 

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小西陣跡から島津の陣跡は目と鼻の先
 
 そうした空気を読んだ義弘は、常に兄を立てる傍ら秀吉からの賦役には過分な実績をもって応える事で、島津家の和を保ちます。
 特に朝鮮出兵の折の活躍は凄まじく、朝鮮・明軍らは鬼石と恐れられたそうです。
 
 秀吉が死んで、石田三成とは九州征伐の仕置きの便宜(義弘の領地を鹿児島の近くとした)もあって懇意だった様ですが、義弘には時代の変化を見極める眼力があった様で、徳川家康へと近付いて行きます。

 

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当主:義久の中立の指示があり、ここに布陣したのは僅か千名余りでした
 
 上杉征伐が決まると義弘は援軍を送る様に義久に要請しましたが、義久の指示は“中立”で遠征には加われませんでした。
 家康に援軍として伏見城の守備を要請された義弘は、大阪屋敷の僅かな手勢のみで伏見城に向かいますが、連絡の手違いか、城代の徳川臣:鳥居元忠に入城を断られます。
 
 そうしているうちに石田三成が挙兵し、大阪は三成に加担する兵で溢れ返る状態になり、当然三成からの要請もあって、事ここに至って…』と、島津家ではなく島津義弘として西軍に加わる事に決めました。
 
 義久からの援軍は望めませんでしたが、薩摩では義弘のピンチを知ったシンパの家臣達が、独自の判断で国を抜け、鎧と槍を担いで三々五々駆け付けて来て、関ヶ原に布陣する頃には千人余りにまでなっていました。
 この中には弟:家久の嫡男で、家久が早世したため義弘が親代わりになって育てた甥の豊久も含まれていました。
 

 

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開戦後、三成の再三の要求にも、島津軍が積極参戦する事はありませんでした。
 
 戦いが始まり、隣りの石田、小西の陣はすぐに激戦になりますが、島津陣に積極的に攻撃を仕掛ける東軍の隊は無く、消極的防戦に努めたそうです。
 この背景には三成との作戦上の感情の縺れが言われています。
成にすれば、小勢の島津より宇喜多、小西などの大兵に頼まざるを得ないので、島津軽視はあり得ますが、もともと東軍に加わりたかった義弘は西軍の軍議や三成の采配を見て、これは勝てない…』との“勘”が働いて、戦闘が一段落した段階での戦線離脱を考えていたのではないかと思います。
 
 しし、小早川隊の寝返りで西軍の劣勢が一気に加速すると、見る見る間に西軍は総れとなり、義弘の思惑は外れます。
もはやこれまで!と腹を括った義弘でしたが、甥の豊久は違う事を考えていました。
このまま西軍加担で終われば島津家は大変な事になる。 きっと徳川に攻められるだろう。
その時には、何としても義弘叔父には薩摩に居てもらわねば…』
 
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伊勢街道烏頭坂にある島津豊久の碑
義弘を逃がす為、この地に踏み止まって奮戦し、自ら犠牲になりました。
 
 切腹しようとする義弘を説得した豊久は、楔の隊列を組むと自ら先頭に立ち、千人一丸となって猛然と東軍の中に突っ込んで行き中央突破での退き陣を図ります。

 

 真っ先に突っ込まれたのは福島正則隊で、大勢が決して気を緩めた途端の島津隊の思わぬ突入に、成す術もなく突破されてしまいます。
 続いて小早川隊、松平忠吉隊も難なく突破されます。
島津兵の強さは知ってるので、勝った後に“手負いの猪”に関わりたくないというのかも知れませんが
 
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 松平忠吉隊の後ろに居たのはもう家康の本隊で、家康も慌てて騎乗抜刀し身構えたそうですが、家康本陣の前で島津隊は右に方向転換して伊勢街道へと南下して行きます。
 『小勢の島津に簡単に切り裂かれて逃したとなれば、徳川の末代までの恥ぞ!
平忠吉と井伊直政隊、そして本多忠勝隊が後を追い、刃を交えながらの激しい退却戦となって、島津隊は少しずつ討たれて行き、南宮山の西麓の烏頭坂まで辿り着いた時にはもう半数以下になっていました。
 
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伊勢街道と鈴鹿の山々
義久は伊勢街道から大和街道を経て堺から海路鹿児島に向かったと言われますが、鈴鹿の山を越えて近江から逃げたという説もあります。

10万近い西軍が撤退していますから、紛れて逃げればどれがどの隊なのかは判別できなかったでしょうね。

 
 逃げ切れない事を察した豊久は、義弘と100ばかりの兵を先に行かせると、自らは体勢を整えて反撃に転じます。
 この戦闘で豊久は壮絶な最期を遂げるのですが、東軍も本多忠勝が馬を撃たれて落馬し、松平忠吉も頭を負傷し後退を余儀なくされます。
 そして井伊直政は右腕を撃ち抜かれる大怪我を負い、これが元で2年後に世を去る事になります。

 

 豊久の身を賭した反撃で、義弘は薩摩まで帰還する事に成功します。
無事に薩摩に着いた兵は僅か80名ほどでしたが、薩摩兵恐るべし!を強烈に焼き付けた事で、その後島津家が処罰される事は無く、旧領安堵を勝ち取っています。
 
 
つづく