『秀吉の恩に殉じたキリシタン大名』
西軍 小西行長 42歳
領地 肥後宇土 20万石
参加兵力 4,000
関ヶ原後 捕縛斬首 改易
小西行長。 よく聴く名前の割に実像は馴染みの薄い武将ですよね。
行長は堺の町人の生まれで、備前岡山の商家に養子として入りました。
その家が宇喜多家に出入りする呉服屋だったため、岡山城に出入りするうちに、その才覚が宇喜多直家の眼に止まり、武士として奉公する事になりました。

『軍師官兵衛より 宇喜多直家』
ガハハハ行長、ワシがみちゃるけぇ うちぃけぇ!
(訳:私が面倒見るからウチに来なさい!)
その後、織田家の羽柴秀吉が中国筋に出張って来ると、宇喜多家はその傘下に入り、行長はその使い番を勤めていた事から、秀吉にもその才能を知られる事となり、請われて秀吉に仕えます。
直家、秀吉ほどの名将に、行長の何が気に入られたのかは判りませんが、思うに身の周りの武将たちとは違う観点というか、商人特有の“風を読む発想”みたいなものがあり、『こいつは役に立つ!』と直感で感じたのではないかと想像します。

行長の陣跡碑は宇喜多陣と峰続きの山の下にあります。
兵力を考えると、中腹だったのかなと思います。
秀吉の下では船奉行を任され、水軍を率いた…と言いますから、並外れた応用力があった様です。
秀吉が天下人になると小豆島で1万石の大名に列せられ、3年後の九州征伐、翌年の肥後国人一揆討伐に活躍すると、いきなり肥後半国(20万石)を与えられ、宇土城を築きます。
これは加藤清正と同じ待遇で、秀吉は先に控える朝鮮出兵は、このどちらかに指揮させようと思い、肥後に置いたのだと言われます。

ここには隣り合わせる様に開戦地の碑もあります。 福島隊が宇喜多隊に発砲したのが最初と言われますが、ここに対峙したのは織田右楽の隊でした
その朝鮮出兵では、行長が一番隊に指名され、清正は二番隊となったため、清正は異常なまでに行長をライバル視して、智恵は働くものの戦わすと弱い行長を蔑んでて、仲は悪かった様ですね。
秀吉が死んで、帰国した行長は“風を読んで”家康に近付こうとしますが、キリシタン大名の行長に利用価値を感じなかったのか、『貴殿は大阪を守っていてくだされ』と、上杉討伐には加われませんでした。

小西陣の前には平坦地が広がっています。 自然と奇策の使えない野戦になってしまいますね。
その間に石田三成ら文治派が旗上げすると、彼等とはもともと良好だった行長は、秀吉への恩もあって西軍に加わる事にします。
徳川についたのは取るに足らない理由から日頃自分を蔑む情弱な武断派ばかりですから、心情的にも分かりますね。
行長が積極的に西軍をまとめた記録は目にしませんが、それまでの実績から、毛利輝元の担ぎ出しなどにひと役買ったかも知れません。
関ヶ原の本戦が始まると、小西隊4,000には織田長益、古田重勝ら2,000余りが襲い掛かります。
闘いは一進一退で長引いた様ですから、やはり実際の地上戦闘は得意ではなかった様ですね。

【熊本城宇土櫓】
名前の由来は、行長の宇土城天守を移築したとも、雇った行長の旧臣に管理させたからとも言われます
真偽のほどはハッキリしませんが、意匠は熊本城オリジナルな気がします。
戦局が動くのは戦いの終盤、小早川秀秋が裏切って大谷隊が壊滅し、続いて宇喜多隊が総崩れになると、逃走する兵に巻き込まれる形で小西隊も敗走を始めます。
行長にすれば、自身の不得手とする野戦のガチンコ勝負に引き込まれた時点で、負けは意識した事でしょう。
得意の兵站力を活かした戦い、例えば船を使った別働艦隊を作り、東海道を西上する家康本隊に見せる様に、江戸を狙う動きでもすれば、家康はもう動けず、東軍は美濃、江戸、宇都宮、中山道と分散する事になり、個別撃破も容易だったのでは…と思ったりします。
とにかく西軍諸将は呆れるばかりの戦(戦略・戦術)下手です。

【敬虔なキリシタンで知られる小西行長像】
キリスト教の布教を積極支援し、領内には30の教会と60人以上の神父が居て、神学校までありました。
その名はヨーロッパにまで知られ、行長の死を知らされたローマ教皇はたいそう嘆いたそうです。
行長は伊吹山中に隠れたのち、捕縛されて自刃を奨められますが、『私はキリシタンだから』と望んで京で斬首刑となりました。
不本意な結末には終わりましたが、一介の商人から大大名にまで取り立ててくれた秀吉の恩に少しでも報えた事と、殺伐とした武家の暮らしを終えて神のもとに旅立てる事に安堵してたかも知れませんね。
つづく