『豊臣一族の誇り 迷いなく義を通した』
西軍   宇喜多秀家 28
領地   備前岡山 57万石
参加兵力 17,000
関ヶ原後 八丈島に遠島 改
 
 
 宇多秀家は備前の戦国大名:宇喜多直家の二男で嫡男です。
家は下剋上の時代を代表する様な、謀略・寝返り・暗殺・詐欺・火付け・押し込み・強盗何でもありの超スペシャルな武将で有名ですが、羽柴秀吉が毛利攻めに侵攻する頃にはもう不治の病に冒されていて、織田家に臣従する事で宇喜多家の存続を図ります。
 
イメージ 1
【軍師官兵衛より 宇喜多直家】
ち、ちばけな!なにゅうよんなら!(訳:ふざけるな!何を言ってるんだ!)
 
 直家が死んだとき、秀家はまだ9歳でした。
直家の妻で秀家の母の於福が秀吉に請われて側室となったため、秀家も秀吉のもとで育てられたそうで、宇喜多家は叔父の忠家が家政を代行しました。
 
   秀吉は父親に似ず純真で聡明な秀家をたいそう可愛がり、元服すると前田利家の娘を貰い受けて養女とし、秀家に娶わせる事で豊臣一門として扱います。
 
 秀家の領地は宇喜多の旧領に備中半国を加え57万石の大封となり、有能な家臣団を整備して、その後の戦いでは秀吉軍の主力として紀州・四国・九州・小田原と活躍します。
 
イメージ 2
吉継の陣跡から川を渡って(ダムの堰堤ですが)秀家の陣跡に向かいます
 
 文禄の朝鮮出兵では総大将として渡海し、慶長の役でも軍監を勤めています。
の晩年には五大老の一人にまで指名され、後事を託されました。
 
 秀吉の死後には一部の家臣の造反による“宇喜多騒動”が起こり、大谷吉継と榊原康政が調停にあたりますが、終息せず、徳川家康が調て借りを作る事になりました。
 
 原因は特定されていませんが、父:直家以来の家風と体制を秀家が刷新しようと試みたのがキッカケと思われ、結果として戸川達安、岡利勝、坂崎直盛ら歴戦の勇将が家を離れる痛手を蒙っています。
 
イメージ 3
宇喜多隊の陣所は天満山にありましたが、大軍のためか比較的低い位置に布陣した様です
 
 その後すぐ、豊臣家臣団の文治派と武断派の抗争が表面化すると、武断派は徳川家康と結び付いた為、一気にキナ臭くなります。
 
 文治派に近い上杉景勝が反徳川を鮮明にすると、家康は“豊臣に対する謀反”として、秀吉子飼いの諸将を従えて征討に向かいます。
 こうした“スリ替え”に豊臣政権存続の危機感を抱いた秀家は、かねてから家康の粛清を目指していた石田三成と結んで挙兵します。
 
イメージ 4
陣所跡は天満神社となって、秀家が祀られています
 
 豊臣恩顧の有力大名が残っていない中、誰が当主だろうと豊臣政権ありきの体制堅持を目的に、腰が引けずに兵を挙げたのはこの二人のみです。
 
 秀吉の死で大名の統制が利かなくなってきた今、秀家の中では、豊臣一族で最大勢力の大名である誇りと責任が、打倒家康へと駆り立てた訳で、他家の動向や勝ち負けに拘らない、今自分が何をすべきかに近いシンプルな発想と行動だと思います。
 
イメージ 5
 
 関ヶ原には1万7千もの兵を率いて布陣します。
文治派の小大名が多い西軍にあっては最大兵力で、最大動員に近い数字で国元はスッカラカン状態だった事でしょう。
 
 自身の損得勘定や数字ゲームの調略合戦に現を抜かす大名が多い中、目的が明確な宇喜多隊の戦意はすこぶる高く、西軍中央に布陣して東軍諸隊の攻撃を一手に引き受ける勢いで戦います。
 
 宇喜多家には明石全登などの勇猛な武将が居り(この人は後の大阪の陣でも大坂方で活躍します)、緒戦は福島正則隊に攻め込んで暴れます。
 
 しし、小早川隊が寝返って参戦し、大谷隊が壊滅すると東軍諸将が殺到して次第に劣勢となり、遂に総崩れとなってしまいます。
 
 秀家は同じ一族と信じていた秀秋の裏切りに激怒して、叩っ殺しちゃる!と敵陣に乗り込もうとするも、家臣達に諭されてやむなく退却しました。
 
イメージ 6
【宇喜多秀家画像】
直家の子ながら、豊臣で育った秀家は品位のある好青年の貴公子だった様です。
ボンボでも、戦の駆け引きと心構えはしっかり持っていて、戦う武将のDNAは受け継いでいた様ですね。
 
 
 戦場を離脱した秀家は伊吹山中に隠れ、その後は薩摩にまで落ち延びて島津氏に匿われますが、島津が家康と和睦した際に家康に引き渡されます。
 
 家にとっては関ヶ原で最大の被害を受けた相手ですが、家康はこうした表裏の無い純粋な秀家の性質が好きだった様で、死罪ではなく八丈島への遠島を言い渡します。
後に罪を赦して大名に復帰させる思惑もあったのでしょうね。
 
 秀家は息子二人を連れ八丈島へ渡りますが、妻の豪姫は実家の金沢に戻り、秀家は田家の援助のもとに土着した生計を立て質素に暮らします。
 
 大坂の陣の際は幕府も秀家の大坂入城を最も警戒していた様ですが、それも無く、15年が経過した後に遠島刑は赦免されました。
 
 前田家は家康の許可を得て、娘のため自身の領地の10万石を割いて秀家に与え、大名に復帰させようとしますが、秀家には徳川に仕える意志など微塵も無く、現地で子孫を残し、宇喜多家は八丈島に根を張って、栄えたそうです。
 
イメージ 7
【八丈島に建つ秀家と豪姫の像】
豪姫が秀家や息子達の無事を祈って前田家から送り続けた物資は白米70俵と金35両だったそうです
 
   個人の想いや欲ではなく、己の立場を自覚して粛々とその役割を遂行した秀家です。
 
 その為に宇喜多家は改易になり、家臣は離散して自身も帰農する結果になった訳ですが、そんな秀家の清廉な姿勢は敵にも共感を与え、家康に臆する事無く果敢に戦った史実は縁戚である前田家にも誇りとして残り、前田家の支援は秀家の死後も滞る事はなく、明治2年まで続いたそうです
 
   もし秀家に父:直家の100分の1でも狡さや雑念があればずいぶんと違た人生になってた事でしょうね
 
イメージ 8
【軍師官兵衛より 宇喜多直家】
 
 
つづく