『武士らしく、最高の死に場所を』
西軍 大谷吉継 39歳
領地 越前敦賀 5万石
参加兵力 5,700
関ヶ原後 自刃 改易
関ヶ原ウォークも終盤、いよいよ西軍の陣跡に入っていきます。

大谷吉継の陣所入口 中山道から東海道線のトンネルを潜って入って行きます 煉瓦造りの雰囲気の有るトンネルです
大谷吉継は石田三成に殉じた義の武将として人気があり、三成の至らぬ部分を補完して戦いを互角に(少なくとも準備段階までは)進めた陰の主役とされています。
近年のドラマでは配役にも力が入っていて、人気もうなぎ上りですね。

【真田丸より 大谷吉継】
義の武将として知られる吉継 その墓前では手を合わせる若い女性をたくさん見掛けました。
役者さんにとってもおいしい役かも知れませんね
吉継は近江の生まれと言われますが、母が高台院(ねねさん)の親戚で、近侍する女房であった縁で、長浜時代に秀吉の小姓となりました。
成長するとそのまま秀吉の馬廻り衆となり、秀吉の中国攻めで活躍します。
“賤ヶ岳の戦い”では、当時長浜を領していた柴田勝豊を調略したのが吉継といわれ、前哨戦で絶対的有利な環境を獲得しています。
その後の紀州攻めや九州征伐では主に兵站の役割を担い、全うした事で、越前敦賀で2万石を与えられています。
当時の敦賀は北国から京への海の玄関口であり、吉継は水軍力を育てる事で日本海の海運を取り仕切りました。

林間を縫って続く歩道も心なしかキレイです。 吉継人気のせいかな?
小田原攻めに水軍として参加してるのはその為で、5万石に加増されますが、朝鮮出兵でも兵站を担当しました。
こうして、軍事部門よりも行政に活躍した吉継ですが、戦闘への適性が無かった訳ではなく、武将の中で行政に通じる人材が少なかったが故の登用だったんでしょうね。
しかし、行政官としては石田三成が居り、吉継の位置付けはあくまでも三成の“部下”としての活躍であり、それが石高に顕れています。
三成を理解し、三成が使いやすい武将が、この頃から吉継が一番だったんでしょうね。


朝鮮出兵での活躍は吉継の評価を高め、秀吉は主たる奉行職は石田三成・増田盛長・大谷吉継に任す旨の発言も見られますが、不幸な事にこの頃から病状が悪化し(ライ病といわれる)、療養を余儀なくされ、吉継の大きな可能性を摘み取ってしまいます。
それでも秀吉は、吉継に期待する所大だった様で、病状の良い時を見計らって、徳川家康を伴ない伏見の大谷邸を訪問しています。

大谷陣所の見張り台から見える松尾山
吉継は秀秋の寝返りを予知していて、勝算を持って戦い、寡兵ながら小早川隊の大軍を押し戻しています。
小早川隊の兵卒の個々にも、裏切りに対する強い罪悪感があって戦意が挙がらなかった… そんな戦いの一端も見える気がします。
秀吉が死ぬと、何かと家康の専横が目立つ様になり、三成ら奉行衆の反発を買う事になりますが、吉継は逆に家康に近付く行動を取る様になりました。
秀吉の居ない豊臣家に特別の恩義もなく、家康の実力と器量を知っている吉継にとって、これからの世を平穏にするには家康の力が必要であり、仮に豊臣家に取って代わろうとしたとしても、戦国の倣いで仕方ない事と受け止めていた様です。
それより要らざる動乱を招かない為にも、自ら進んで近付く事で、動乱の芽にならない様にしたのかも知れません。

病気が進行し、体を動かす事もままならなかった吉継は、この決戦に死に装束で臨んだと言われます
そして関ケ原。
家康の上杉征伐の号令に呼応した吉継は、3千の兵を率いて敦賀を出発し、途中で佐和山に蟄居中の三成を訪ねます。
ここで三成から挙兵の計画を打ち明けられた吉継は一旦は翻意を促すも、無理と判断すると行動を共にする決意をし、三成の構想を補完する動きを取っています。
つまり毛利輝元の担ぎ出しや宇喜多秀家の扱いにまで細かく助言しています。
そもそもなぜ佐和山に寄ったのか? 三成に同調を決意するまでの三成との強い絆とは何なのでしょうか?

大谷隊を率いて前線で奮闘した平塚為広の碑 大谷陣所のある藤川台の南斜面中腹にあります
お母さん、お子さんに良い教育されてますね。
三成との共通点はと言えば、豊臣政権下での奉行職にあります。
豊臣政権を安定的に継続させる為に、あらゆる法や掟を整備し、守られる為の管理体制の仕組みを敷いた三成と補佐した吉継です。
違うのはその適用感覚で、吉継が主に下を見ていて、自らの判断の決裁者として大老や関白・太閤があったのに対し、三成のそれは豊臣一族さえも懲罰対象にした完全な法治体制です。
『豊臣家を守るには誰か強い権力者の力が不可欠、しかしその権力者が豊臣家を潰す事があったとしても、それは委ねた上位者の判断ゆえ仕方のない事』
『だが、三成は掟は実力の如何に関わらず守らせようとしている…私が間違っていたのかも知れない…』
『自ら万全を期して造った法と政権簒奪を目論む徳川という絶対権力者、みんなは一体どちらに味方するのか?見て見たい…』
そんな気持ちの変化が“内府ちがひの条”になったのかも知れません。

為広は死期を悟ると、討ち取った首に辞世の句をつけて吉継に送った後、討死にしました
『君がため 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へば』吉継への信頼と尊敬は尋常ではなかった様です
アテにしていた吉継の叛旗と“内府ちがひの条”の見事な条文は家康を慌てさせます。
江戸城に籠って動静を探るとともに、欲得に基いた多数派工作を展開し、その結果に見通しがついてから出陣します。
その間、吉継は一旦敦賀に戻り、計略を用いて前田利長の南下合流を阻止すると、近隣の中小の大名を糾合して関ヶ原に向かいます。
山中村の藤川台に着陣した吉継は陣城を構えると次いで宇喜多隊、小西隊の陣地も整えました。
この行動から察するに、関ヶ原での野戦は既定の構想で、突発的な対陣・開戦ではなかったという事ですね。
吉継の陣地は小早川秀秋の寝返りをも想定した位置取りだったと言われ、同行して来た小大名は小早川に備えて配置します。

吉継と湯浅五助の墓 対戦相手だった藤堂高虎による建立だそうです
家康命の高虎の行動とも思えませんが、それだけ大谷隊の奮闘が見事なもので、強い感動があったのでしょうね。
家康も惜しい武将の見事な散り様に心打たれる所があって許可したのだと思います。
9月15日、戦いが始まり大谷隊は藤堂・京極隊の攻撃を受け一進一退の攻防を展開します。
ほぼ失明し、馬にも乗れない吉継に代わり平塚為広が前線の指揮をしています。
そして小早川隊の寝返り攻撃が始まります。
ホッと一息の藤堂隊に代わり小早川隊が相手となりますが、俄然大谷隊の志気が上がり、500mもの距離を押し返して松尾山まで追い戻してしまいます。
吉継には烏合の小早川隊を押える自信があった様ですね。
誤算はともに敦賀から来て着陣し、今まで戦闘に参加していなかった脇坂、戸田、小川、朽木、赤座の諸隊が東軍に寝返る形で大谷隊の側面から攻撃を仕掛けて来た事で、大谷陣と前線を分断してしまいます。

吉継が本陣を置いたであろう高所に建つ碑
吉継の辞世は『契りあらば 六の巷に まてしばしおくれ先立つ 事はありとも』で、先に討死にする平塚為広の辞世への返歌となっています
急ぎ陣場近くまで撤退した平塚為広でしたが、小早川隊の反撃に藤堂隊も加わり、為広は討死にしてしまいます。
これを聞いた吉継も『無念だが是まで』と自刃して果てます。
介錯は家臣の湯浅五助が行ない、五助は首を人知れず何処かに埋めるとすぐに取って返し、藤堂隊に斬り込んで討死にしたため、吉継の首はついに見つかりませんでした。
逃亡せずに自刃を選んだ吉継、最期の言葉は『人面獣心になり、三年の間に祟りをなさん!』ではなく、『三成、ダメじゃったのう、先に行くぞ!』だった様な気がしますね。

吉継の亡霊に苦悩する小早川秀秋
2年後に吉継の祟りで狂い死んだと言われる秀秋ですが、そう単純な構図ではない様です
つづく