東軍の陣所を廻り終え、この後は西軍の陣所に入って行きますが、ここ関ケ原は古くから東西の交通の要衝なので、とても沢山の遺跡があります。
頑張って歩いたので少し時間の余裕もあるから、ちょっと寄り道して行きます。

不破の関跡
ここ関ケ原に不破の関が置かれたのは673年と古く、天武天皇の命によるものでした。
前年に起こった“壬申の乱”でこの地域は最大の激戦地となり、都を守る必要性から東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道には愛発関の三関が設けられ、東国からの脅威に備えたと言われます。

関は街道を遮断する形の400m四方規模の大きさで、単重の土塁に囲まれており、中には掘立柱の建物がたくさん建っていて、数百名規模の常備兵が駐屯していた様です。
ここ不破の関は藤古川の左岸にあって、川岸の段丘を利用した高い堅固な土塁で守られていました。

ここでひとつ大きな疑問。
東国の脅威に備える施設(城)なのに、なぜ川の東側にあり、西向きの備えを強化しているのでしょうか?
資料館があるので、ヒントは見つかると思いますが、今日は時間が無いので、今後の研究課題にします。
*自宅の近くにあった鈴鹿関も峠の東の麓にあった様で、不思議です。
常盤御前の墓
不破の関から旧中山道を西へ1kmほど歩くと山中宿跡の集落に入ります。
ここに常磐御前の墓があるそうなので訪ねて見ます。
(実は今回のイベントのチェックポイントのひとつです)
常盤御前と言えば、源義経の母ですから、随分と前の人物ですが、この関ケ原で亡くなったのですね。


旧中山道を西へ
常盤はもともと近衛天皇の中宮:九条院の雑使女(女中)でしたが、源義朝に見初められて側室となり、義経をはじめ3男をもうけました。
平治元年(1160)、平清盛と対決した源義朝は敗れて、東国へ逃亡途中に尾張国内海の野間で家臣に殺害されました。
*秀吉の時代、織田信長の三男:信孝も秀吉によりこの野間で切腹して果ててます。その辞世の句『昔より あるじを討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』 はこの義朝の死に方の古事を例えています。

常盤の墓ではウォーキングに協賛して“常盤まつり”が開催されています
23歳で未亡人となった常盤は降りしきる雪の中3人の幼児を連れて大和に逃れようとしますが、自分の母が捕えられたのを聞くと、平清盛のもとに現れ命乞いをして、子供達は仏門に入れる事で助命が叶います。
その時の条件で清盛の妾となり、1女をもうけた…という説もありますが、この確証はありません。
その何年か後、常盤は公家の一条長成のもとに再嫁して、1男1女をもうけていますが、これは史実の様で、男児の一条能成の生年が1163年ですから、すぐの事だったのでしょうね。

会場には休憩所が作られ、地元の方総出で茶菓のサービスをしてくれています
ウォーキングも終盤、疲れた体に元気が戻ってきました(^^)
夫の一条長成は四位の中級の公家でしたが、奥州藤原氏とのパイプがあり、鞍馬寺に預けられていた義経(牛若丸)を脱出させ、藤原氏に届けたのは長成による工作と言われています。
平家全盛の時にとても危険な行為ですが、常盤の願いを叶えたのだとすれば、きっと男として命を賭けるに値する女性だったのでしょう。

『義経』では稲森いづみさん、『清盛』では武井咲ちゃんが演じていました。
治承4年(1180)、兄:頼朝と共に平家追討の兵を挙げた義経は4年後には京に攻め上って来て、常盤との再会を果たします。
西国へと逃れた平家を追った義経は連戦連勝で、翌年の4月には壇ノ浦に平家を滅ぼして凱旋します。
京で歓待される義経でしたが、頼朝との間に不和が生じ、次第に大きくなって行く中ついに頼朝からの義経追討令が発せられ、京を離れなければならなくなり、奥州を目指しての逃避行を始めました。

義経の身を案じ嘆き悲しんだ常盤は、侍女一人を連れて義経の後を追ったそうです。
そして中山道を進み関ケ原にさしかかった時に、野盗に襲われて殺害されたんだそうで、翌朝に高貴な身なりの遺体を見つけた村人達の手でこの地に葬られました。常盤47歳の時です。

芭蕉も訪れて句を詠んでるみたいですが
『義朝の 心に似たり 秋の風』…う~ん、ちょっと気持ちが乗らなかったみたいです
こうした常盤の最期を伝える伝承と墓は、東京都青梅市、埼玉県飯能市、群馬県前橋市などにもあり、どれがホンモノかはともかく、京を離れて亡くなったのは間違いないのでしょうね。
公家の室が子供を追いかけ危険な旅になど出る訳ないでしょう?…と思うかもしれませんが、常盤が一条長成との間にもうけた能成も義経と行動を共にしているので、子を想う母親の気持ちとして大いにあり得る事だと思います。
戦乱に日常に夫や子供を奪われた時代…、武家の女性の悲劇の跡ですね。

本編の陣跡めぐりにつづく