『2人の家老に仕組まれた寝返りのシナリオ』
西軍⇒東軍 小早川秀秋 18歳
領地 筑前名島 37万石
参加兵力 15,600?
関ヶ原後 備前岡山 55万石に加増転封
さて、秀秋です。
いつもヘタレで、ろくに判断力を持たずに家康に脅されて裏切ったバカ殿扱いなんですが… 彼にだって言い分はある筈です。

だいたい天下分け目の戦場で大大名の家が、存亡に関わる究極の判断を僅か18歳の戦場経験も無いボンボンにさせる事自体がおかしいやろ?…という疑問があります。
ですから、寝返りの決断が本当に秀秋単独の決断で、皆がそれに従ったのか、或いは実権を握る取巻きで、暗躍した者が居たのか?
その辺りを冷静に見て行く必要がありますよね。

まず、秀秋自身の履歴です。
秀秋はねねさんの兄:木下家定の5男で、3歳の時に秀吉の養子となりました。
この年は養子の秀勝(織田信長の4男)が病死した年であり、後継者の不安から養子としたものと思われます。
秀秋は幼名を辰之助といい、ねねさんの元で育ちます。
7歳のとき、同じく養子の秀勝(三好)の朝鮮での病死を受け、遺領の丹波亀山10万石を受け継ぎました。

これがその後の秀秋家臣団の基礎になっていると思われますが、7歳にして領国に住んだかと言えばそうではなく、秀次に次いで豊臣家相続権2位の身ですから、領地は家臣に任せて、大坂か伏見城に居たと思うのが普通ですね。
おそらく女房衆に囲まれ、名の有る大大名からも鄭重にもてなされる事が当たり前の日常だったでしょうね。

11歳のとき、秀吉に実子の秀頼が生まれ、待遇は激変します。
跡継ぎの懸念が減り、秀秋は候補から外されて、毛利家の養子に出される事となりましたが、ここは小早川隆景が動いて、自身の養子とすることで毛利家を守ります。
12歳で秀秋は丹波亀山の自領を持ちながら、筑前名島の小早川家37万石の養子となりました。
この時点で、周囲が秀秋を見る目が大きく変わった事は容易に想像できます。多感な年頃を迎えた秀秋の心の傷はいかばかりか…。

翌年になると、秀頼の成長を確信した秀吉は、結果として秀次を切腹に追い込みます。
義兄弟の秀秋も連座責任に問われ、亀山の領地を召し上げられてしまいました。
要するに、秀吉とってはもう“邪魔者”だったんですね。
ここも、小早川隆景の機転で、小早川家の家督を正式に相続する事で体面は保つことが出来ましたが、これ以降、秀秋は酒色に溺れて行きます。

15歳のとき、慶長の役で朝鮮出兵を命ぜられ出兵しますが、石高の割には500人規模の人数しか派遣しておらず、格下の大名に与力する形での築城・警備が主な仕事でした。
その暮れに召喚された秀秋は、秀吉から越前北ノ庄15万石への減転封を言い渡されます。
陣中では特に大きな功績も失敗も無い秀秋でしたから、豊臣一族としての秀秋個人の素行に対する懲罰的な意味合いが強いと思われすが、それだけ目に余るほどに荒れていたという事でしょうか。

秀吉は時期を見て秀秋の名島への復帰を遺言しており、死後には五大老の連名で名島への復帰が果たせていますから、少し酷過ぎる懲罰だったのかも知れません。
秀秋自身は朝鮮での言動を大袈裟に報告した石田三成を恨んでいたという話もあります。

物心ついた時からチヤホヤされて、持ち上げられたり落とされたり、自分の身の置き所も定まらないままで家の治政にも関心が持てず、すべて家臣任せにして遊び呆けていた姿が目に浮かびますね。
ただ、小早川家が無尽蔵に遊ぶ資金を与えていた訳ではなく、秀秋の求めに応じて義母で叔母のねねさんが融通していた様です。
その額は実に500両。 ねねさんも共犯ですね。
そして関ケ原はその2年後です。

次に取巻きですが、
最初に丹波亀山を得た時に、山口宗永が付家老として秀吉から配され、この人が家の裁量をしていたと思われます。
この人はよく勤めていた様で、名島から北ノ庄に減転封された時に独立大名となり、越前大聖寺城を与えられています。
その後の関ヶ原では終始西軍として戦い戦死していますから、豊臣支持の家臣だった事は間違いないでしょう。
後になっって思うと、秀秋にとって痛い人事ですね。

山上からは西軍の陣が見渡せます
一番上に石田隊、その下の森には島津隊、中央のグランドに小西隊、そして一番手前の森が宇喜多隊です
亀山から名島に移る時には多くの家臣が付けられますが、家老としてはまず平岡頼俊というのが居り、妻は黒田長政の従兄妹です。
怪しいのが出て来ましたね(^^;
同じく家老で、稲葉正成が居ます。
春日局の夫として有名ですが、この人も寝返り推奨派で、戦後に秀秋と口論の末に逐電していますから、かなりの役割を担っていたのでしょう。
そして後に(褒美として)大名になっています。

以上が家老ですが、最後に松野重元、この人は丹波亀山以来の家臣でしたが、秀秋の寝返りを知って驚嘆し、命令に従わず戦陣から離脱しています。
この事は、小早川家は表向き西軍として着陣し、東軍と戦う指示がされていた事を示していますね。

家臣の中に傅役として一貫した教育に携わった者が見当たらず、その事が秀秋から自立心や判断力の醸成を奪った可能性もあります。
つまり、豊臣家の不遇な扱いをネタに黒田長政が平岡頼俊に話しを持ち掛け、頼俊は信頼の置ける稲葉正成と謀って秀秋を説得して行きます。
事が事だけにこれは他の家臣には秘密裡に行なわれ、最終的には秀秋を同意させるに至ります。
しかし秀秋が全てを理解し、その後起こる事に戦略を描いて同意した訳ではなく、ただ返す言葉を持たなかっただけの事でしょう。
所詮は小早川家の飾り物の殿様ですから、仕方ありません。

眼下では、西軍の大谷吉継も厳しい監視の眼を向けています
しかしこの高低差と距離、家康が催促の威嚇射撃をしても喧騒の中では気付きませんよね。
そして山道を1万5千もの兵馬が降りて行くには何時間も掛かりそうです…
石田三成が挙兵し、豊臣一族の宇喜多秀家が賛同すると、同じ一族の秀秋は引きずられる様に西軍と行動を共にします。
伏見城攻めにも加わりますが、戦意は高くない様で、挙動も不審だったのか、すでに疑いの目で見られています。
関ヶ原の本戦では、15,000の兵力で松尾山に布陣したそうです。
山上にあった陣取図
*30万石あまりの石高でこの動員数は絶対無理なので、寝返った付近の大名の兵も入れての数かも知れません。

松尾山の麓の森 遠目ながら、段々に削平地が隠れている様に見えます
山上に監視所はあったにしても、小早川軍のほとんどはこの辺りに待機していたのではないでしょうか?
戦が始まりますが秀秋は動きません。
本来の西軍なら、藤堂高虎隊あたりに攻め掛けるのでしょうが、坐して動かず、藤堂隊も小早川の存在を無視して前進します。
実際はこの段階でどちら側から見ても寝返り確定ですね。 見え見えです。

不戦⇒寝返りは後詰めの投入と同じ効果です。
投入タイミングは敵の戦線が伸び、疲れが出て動きが鈍くなった頃が有効で、小早川隊の参戦が昼過ぎになったのは、東西を問わず豊臣恩顧の諸将が相当に疲弊して、万一小早川隊が負けても、最後は自前の徳川勢で決められる…そのタイミングを待ってただけに過ぎないと思います。
ただ、秀秋自身は肝が座らなかった分いろんな想いが交錯して、心筋梗塞のドキドキ状態だったとは思いますが…。
つづく