次は関ケ原駅を1kmほど南に下り、本多忠勝の陣所を目指します。
『最後の戦いも戦場に恵まれず』
東軍 本多忠勝 52歳
領地 上総大多喜 10万石
参加兵力 500
関ヶ原後 伊勢桑名 10万石に転封
本多忠勝。 言わずもがな徳川家きっての武者で、かつて武田信玄、織田信長、豊臣秀吉をもうならせた一騎当千の猛将です。
忠勝の陣跡はかなり後方にあり、それまでの忠勝を知ってる者は少なからず違和感を覚えてしまいます。

これには事情が有り、豊臣恩顧の諸将の軍監となるべき井伊直政は、直前に発病したため江戸出立が遅れてしまいました。
諸将の統率を危惧した家康は、緊急の措置で忠勝にこの代役を依頼します。
『お主しかおらんだで…』は忠勝も判っているので、屋敷に居た人数だけ引連れて出発しました。その数90。
幸い、直政の病はすぐに治り、後を追ったので大事には至りませんでしたが、忠勝の居ない本多家の本隊は嫡男の忠政が率いて秀忠軍に編成されます。
この事が関ケ原での忠勝の行動に大きな制約を与える事となるのです。

風呂釜にポリバケツ…ほんとに民家の裏庭です(^^; 『お騒がせします』
でも、単独で本多忠勝陣所があるのが、なんか不思議です…。
それでも忠勝は直政と協力して前哨戦の岐阜攻めなどに活躍しますが、本戦では家康本陣にあって、異常時に備える遊軍の役割に徹するしかありませんでした。(本戦の頃には兵力は500まで増えていましたが)
忠勝が自ら戦ったのは島津の退き陣のときで、徳川本陣の前で反転し南を目指す島津隊に追撃を試みますが、愛馬の“三国黒”を撃たれて落馬し、追撃を諦めざるを得ませんでした。
戦績からして、いささか不本意な結末です。

【真田丸より 本多忠勝】
これだけピッタリなキャスティングも珍しいですね
戦後、忠勝は家康から伊勢桑名への移封と5万石の加増を言い渡されます。
移封は受けた忠勝でしたが、加増については固く辞退して決して受けませんでした。
天下分け目の戦いで、思う様な貢献が出来なかった事への贖罪か、または真田昌幸の助命嘆願を強引に認めさせた代償の意識からか…。
困った家康は、忠勝の二男:忠朝を5万石で大多喜藩主とする事で帳尻を合わせました。
いずれにしても、忠勝はすぐに隠居を決意し、稀代の猛将:本多平八郎忠勝の戦いはこれが最後となりました。
『家康に心酔し、気持ちは徳川譜代』
東軍 藤堂高虎 44歳
領地 伊予宇和島 11万石
参加兵力 2,490
関ヶ原後 20万石に加増
藤堂高虎は浅井長政臣下の足軽からスタートします。
浅井家滅亡後は旧浅井家の武将のもとを転々としますが、意気の合う主君に恵まれず、半分浪人暮らしで青年期を過ごします。
そしてやっと出会えた主君が羽柴秀吉の弟の秀長でした。

忠勝の陣跡から、今度は一気に西へ向かいます
高虎の才能は秀長の元で花開き、戦場での活躍はもとより、秀長の領地:紀州での築城に成果を挙げます。
この才は秀吉の眼にも止まり、聚楽第の造営にも抜擢されて、徳川家康の宿舎などの造営に携わり、家康とも面識を得ます。
秀長が病死すると、養子の秀保に仕え、朝鮮出兵(文禄の役)は秀保の代理で出兵していますが、その秀保も早死にして、大和大納言家は解散になります。

市街地を歩いてると、こうゆうのにも出会えます
高虎は『武士としての役目は終わった』と出家して高野山に登りました。
秀吉は高虎の才を惜しんで召喚を試みるも、内心は秀吉に否定的だった高虎は固辞します。
旧知の生駒親正に説得されてやっと還俗した高虎には、伊予宇和島7万石が与えられ、その後の慶長の役での水軍働きや様々な築城に活躍します。
高虎は秀吉が死ぬ前から家康と昵懇になっていて、それは家康の懐柔と言うよりも、高虎自身が家康の生きざまに心酔して自ら売り込んだからと言われています。
家康も『使える』高虎を重宝し、要するに波長が合う同士だったんでしょうね。

本多作左衛門重次? 関ケ原には居ないでしょう(^^;
秀吉が死んで、豊臣恩顧の武将に亀裂が生じ、武断派が精神的支柱として家康に近付くのですが、高虎はとっくの昔に家康に鞍替えしていて、気分はもう譜代家臣でした。
関ヶ原の本戦、高虎は京極高知と共同で陣を敷き、戦いでは小西行長隊を攻めました。
小西隊の戦意は高く、前半は苦戦を強いられますが、小西隊に与力すべき西軍の脇坂安治、小川祐忠などはすでに高虎に調略されており、小早川秀秋が裏切ると共に雪崩を打って押し寄せたために、最後は圧勝の結果に終わります。

関ケ原中学校の駐車場脇に、陣跡碑がありました。
闘いの後、高虎には9万石が加増されます。
ちょっと少ないんじゃないの?…とも思いますが、この戦いの主役のひとり井伊直政もそんなもんで、“釣った魚に餌はやらない”訳ではなかった様です。
高虎もまったく意に介さず、その後も徳川家の為に走狗になって働き、最後は伊勢津32万石と譜代並の信頼と待遇を手にし、それは江戸期を通して変わる事はありませんでした。

武将となり一国一城の主となったなら、天下を狙うのか狙わないのか。狙わないなら誰を助けて天下を取らすのか…。
判り切った事ですが、何があろうと何と言われようと誠心誠意で家康を助ける事を雑念なくやり遂げた高虎です。

藤堂隊の陣には京極高知隊も布陣していた様なので紹介しておきます。
藤堂高虎と京極高知のつながりがよく判らないので、なんとも言えませんが、共に豊臣家臣で近江の出身なので、何かしら交流が有ったのかも知れません。 または、たまたま陣が隣り合わせで、現在一緒にされてるだけなのかも知れません。
東軍 京極高知 28歳
領地 信濃飯田 10万石
参加兵力 3,000
関ヶ原後 丹後宮津12万3千石に加増転封
京極高知は近江大津城主:京極高次の弟ですが、早くから秀吉の側近くに仕えていました。
また姉の竜子も秀吉お気に入りの側室だったため、嫡流の兄より早く出世して行きます。
まず秀吉の口利きで信州飯田10万石:毛利秀頼の娘を室に迎えます。
*この毛利家は織田家からの臣で、桶狭間で今川義元を討ち取った毛利新介の一族です
そして秀頼が死ぬと秀吉の裁定で毛利の領地は高知が継ぐ事となり、毛利家嫡子の秀秋に分与されたのは僅か1万石だけでした。
その秀吉も死ぬと、京極の兄弟は何の外連味もなく徳川に走り、関ヶ原では藤堂隊と同じく大谷隊を攻めています。
義は欲に勝てなかった典型的な事例で、恩賞も他の将に比べて値切られてしまってますね。
ちなみに、毛利秀秋は小身に落とされながら親豊臣=西軍を貫いて伏見城攻めに加わり改易されます。
浪人後は秀頼を守るべく大坂城に入って、夏の陣で同姓の毛利勝永隊に加わり、仙石忠政と戦って討死にしました。
つづく