『兄に代わり戦った初陣の御曹司』
東軍 松平忠吉 19歳
領地 武蔵忍 19万石
参加兵力 3,000
関ヶ原後 尾張清須 52万石に加増転封
『東首塚』のすぐ脇には松平忠吉の陣所跡があり、舅であり後見役の四天王:井伊直政と共に着陣していました。

忠吉は松平姓ではあるものの、れっきとした家康の四男で、松平家の名家:東条家に嗣子が絶えたため、家康の判断で継がせていました。
秀忠とは母が同じ“西郷局”で、兄弟仲はとても良かった様です。
関ヶ原では初陣を果たす事が目的なので、軍監の井伊直政と共に後方に布陣する予定でしたが、徳川本軍を率いた秀忠の到着が遅れ、開戦に間に合いそうにありません。
激怒する父に困惑した忠吉は自ら申し出て、兄に代わって秀忠が布陣する筈の前線に布陣しました。
後の事を考えると、誠に微妙な機微ですね。
*陣所跡は他の武将に比してかなり後方にあるので、一番槍は無理です。本当の陣所はもう少し西側だったんでしょうね。

松平忠吉画像
大将の器量を持つ超イケメンな若君だった様で、「この若殿の為なら…」と徳川に参じる諸侯も多かった様です。
家康も二代将軍を決める時に、迷いに迷った原因がこのデキの良い忠吉の存在だったそうです。
開戦の先鋒は福島正則隊と決まっていましたが、戦闘は忠吉隊と小西行長隊(島津義弘隊とも)の小競り合いで始まりました。
これを合図にした様に、正式に福島隊が宇喜多隊に突っ込んで大々的な戦闘が始まります。
当日の朝は濃霧だった様で、じりじり間合いを詰める東軍諸将の中で忠吉隊が少し突出してしまい、小西隊の応射を受けただけなのか、あわよくば手柄にしたい直政の策謀かも知れませんが、忠吉が抗議を受ける事はありませんでした。
本戦では豊臣恩顧の武将が前面に出て戦い、忠吉隊ががどの隊と交戦したかは判りません。
終わった時点では福島隊の後ろに居た様ですから、宇喜多隊攻めを後方で支援していたという事でしょうか。

忠吉が最初に攻めた場所が『開戦の地』になっており、小西行長の陣所のすぐ脇にあります。
地権がありますから、碑の位置と実際の故地は必ずしも一致しない様ですね。
忠吉が動いたのは島津隊が退き陣を始めてからで、島津を追った直政に引っ張られる形で後を追います。
直政が待ち伏せの銃撃で負傷すると周囲の諌止を聞かずに先頭に立って追掛け、忠吉もまた手傷を負ってしまいます。
戦後、忠吉には尾張、美濃で52万石が与えられ、清須城主となります。
つまり最初の御三家筆頭の尾張藩は忠吉だった訳ですが、関ヶ原の折の戦傷が癒えず、それが元で27歳でこの世を去ります。
将軍:秀忠は自分を親身に支えてくれた実弟の死をとても悲しんだそうですが、もしも忠吉が将軍を継いでたら…諸侯に愛される将軍となって、徳川幕府も少し違うものになっていたかも知れませんね。
『我慢しきれなかった猛将の血』
東軍 井伊直政 39歳
領地 上野高崎 12万石
参加兵力 3,600
関ヶ原後 近江佐和山 18万石に加増転封
井伊直政はこの当時、家康が最も信頼する家臣であり、“井伊の赤備え”は日本一の最強軍団と言われていました。
しかし、関ヶ原の戦いで家康が直政に託した役割は、実はまったく違うものでした。

徳川家康にそもそもこの戦いで自前の軍を前面に出した戦うという発想はなく、あくまでも豊臣恩顧の武将達が仲間割れして、勝手に戦って、自滅していく…というストーリーに持って行くのが作戦の大前提です。
こうした役割は本多忠勝や榊原康政では“自分”が出過ぎてしまいます。かと言って本多正信では初めから謀略を疑われてしまう。
旺盛な戦意を持つ軍団を持ちながら、他人を動かす応用力…という所で直政に白羽の矢が立ったのでしょう。
小山評定を経て東軍は江戸まで引揚げ、豊臣恩顧の武将達はここで家康と別れ、一足先に西上して美濃、尾張に展開します。
家康は状況分析と称して江戸に居て、諸将の出方を覗うのですが、松平忠吉が家康の代理で、直政は軍監として諸将と共に西上し、岐阜城攻めなど積極的な軍事行動を督促します。

お馴染み井伊直政画像 来年の大河は主役ですね
更に直政には西軍の切り崩しも課せられていました。
豊臣恩顧の黒田長政が勧誘し、家康の信頼が厚い井伊直政が徳川を代表し仮のお墨付きを与えるという周到な作戦(詐欺)で、家康自身は最悪“知らなかった”ですむ作戦ですね。
まんまとこれに引っ掛かって80万石召し上げられたのが毛利家(吉川広家)でした。
直政は秀忠の遅れで、実戦に加わるハプニングもありましたが、物事は思惑通りに運び、娘婿の初陣・武功にも貢献できました。
唯一の誤算は島津の退き陣の見事さで、怒涛の勢いで東軍を切り裂くと、家康本陣の前を駆け抜けて行きます。
『これは凄い!』…と感心すると同時に『井伊直政が居ながら、みすみす逃がしてなるものか!』と身体が自然に動いていて、単騎駆けで島津隊を追います。
しかし、島津義弘に追い付いたと思った刹那、待ち伏せていた島津家臣:柏木某の放った弾丸に右腕を撃ち抜かれ、落馬してしまいます。

赤備えの甲冑の上、大きな金色の脇立て、そして大柄な体躯と… 狙撃手からは格好の的になってしまいました。
直政は後日、島津家の要請を受けて、降伏条件の交渉に奔走し、島津家はお構いなしとの裁定を勝ち取りました。
『助けるなら、なにも追掛けて怪我する事なかったのに…』と思うのが道理ですが、そこが戦いに明け暮れた戦国武将の血なのです。
あの場面では、久々に見た強敵の出現にアドレナリンが噴出し、反射的に動いた…というのが真実だったのではないでしょうか。
2年後に戦傷から破傷風を併発してこの世を去った直政、でも戦傷で死ぬ事には何の後悔も無かったのだろうと思います。
つづく