『これが戦国武将の生きる道?』
東軍 田中吉政 52歳
領地 三河岡崎 10万石
参加兵力 3,000
関ヶ原後 築後柳河 32万石に加増転封

丸山を降りてスタート地点近くまで戻ります(ピンボケすんません(^^;)
ここ“陣場野”は開戦後に家康が桃配山から前進し、最終の陣を敷いた場所であり、公園として保存・整備されています。

陣場野にある陣所跡 最初に布陣したのは田中吉政の様で、その後は家康に譲る形で前進したのでしょうか?
田中吉政は何処にでも居そうな平凡な名前からか、あまり印象の強く残らない武将ですね(福岡・滋賀の皆さんすんません(^^;)。
吉政の出自は浅井家の武将だった宮部継潤の家臣と言われ、織田信長が浅井家を攻めた際、羽柴秀吉に調略され、秀吉の家臣になりました。
秀吉の下では宮部家を離れて、羽柴秀次の宿老になっており、秀次が近江八幡(43万石)を与えられると、与力の堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏らを飛び越して筆頭家老になっています。

吉政の何処にそれだけの抜擢を受けるモノが有ったのかといえばその行政手腕であり、近江八幡の街造りを行ない、他の家老が城持ちであったのに対し、吉政は八幡城に常勤して秀次の治政を補佐・代行しました。
北条氏が滅んで徳川家が関東に移動すると、秀吉は吉政に三河岡崎6万石を与え、独立大名とします。
秀吉は家康の旧領の東海道筋に信頼すべき直臣を配置して備えとしますが、吉政もその一人でした。
秀次事件が起こり、多くの家臣や関係者が処分された時も秀吉のお気に入りの吉政にお咎めはなく、逆に家老時代によく諫言していたという功で4万石の加増を受け、10万石の大名となります。
まさに秀吉様様の吉政です。

吉政はこの恩に報いる様に、チンケな土の田舎城だった岡崎城を、現在見られる様な総石垣の城に改修し、守備力を格段に強化しました。
しかし秀吉が死ぬと、手のひらを返した様に家康に近付き、保身の道を探ります。
秀吉には恩義はあれど、秀次も居ない豊臣家へのこだわりは、もう無かったのでしょうね。
関ヶ原の本戦では細川、黒田隊とともに石田三成隊と激戦を交わし、戦後に三成を捕縛したのも吉政でした。
豊臣行政官僚として旧知の吉政は三成に逢うとすぐに縄目を解いて慰労し、三成も『貴殿に捕まるなら本望』と安堵したそうです。
しかし、人目のつかない場所へ匿う相談をしながら、三成の財宝の隠し場所を聞き出すと、また縛り上げて家康の元に突き出したという逸話があります。
う~ん、なかなかのやり手ですね(^_^;)

田中吉政画像
見たこと無い? でしょうね(^_^;) でも領内の巡見には弁当持ちで出掛けて行き、野良で農夫たちの昼食の輪にズカズカ入って一緒に食べるという、気さくな殿様でした。
吉政にはこの一連の功で筑後一国、柳河32万石が与えられます。
なにか、ドライ過ぎて現代人の我々は付いていけないのですが、存続の分岐点においては私情を切り捨てる割り切りができないと、生き残っていけない時代だったのでしょうね。
その証拠に、自領の治政には持ち前の手腕を発揮して、領民からはとても慕われる殿様だった様です。

陣所跡の向かいにある洋品店 関係は無いと思いますが…一応。

『東首塚と西首塚』
田中吉政の陣所を南に300mほど下ると、東海道線の線路脇に『東首塚』があります。


首塚にある唐門とお堂 こうゆうのを造って供養をしないと…ね
関ヶ原の戦いの戦死者は8千名と言われます。
17万の軍兵が激突した戦いの死者としては少ない気もしますが、数字の出所が特に利害のない機関(旧帝国陸軍研究所)ですから、信憑性は高いと思います。

戦後、戦死者の遺体は勝ち側の東軍により首実検をした後に埋葬されました。
家康は“陣場野”において首実検をしたそうですが、首は事前にキレイに洗って血糊を落とした上、お歯黒を施されて実検場へ持ち込まれます。
その事前の作業と実検後の埋葬が行なわれたのが『東首塚』の様です。
塚は今日まで代々供養しながら守られて、近代には朱塗りの御堂と高麗門も整備されています。

線路を渡って国道を西に500mほど歩くと、道路わきに『西首塚』があります。
こちらは石標に『胴塚』とも記されていて、首実検に不要な胴体を埋葬した場所と推測されます。
また、関ヶ原の戦場は広大ですから、将士から雑兵まで8千もの戦死者を一ヶ所に集めて来て埋葬するなど不可能で、関ヶ原にはそこかしこにこうした塚が造られて、供養されて来たのでしょうね。

こうした作業は領主の竹中重門に命ぜられ、領民の手によって行われた事でしょうが、家康から下賜された供養料は1千石だったと言います。
いずれにしても、村々の家を焼かれ、屍が転がる田畑を元に戻すのは領民の仕事であり、天災と受け止めるしかなかったのです。

つづく