『東軍勝利に冴えた智謀』
東軍 黒田長政 32歳
領地 豊前中津 18万石
参加兵力 5,400
関ヶ原後 筑前名島 52万石に加増転封

黒田長政は細川の陣の北側、相川を渡った高台の丸山に布陣しました。
丸山は関ヶ原を俯瞰できるものの、戦闘に参加するには渡河が必要で、攻めに転じ難い場所です。
高地に布陣する西軍がわざわざ山を降りて丸山を攻める訳もなく… 何か別の目的を持った陣取りだったのでしょう。


黒田陣には竹中重門が陣借りする形で共に布陣しています。
東軍 竹中重門 27歳
領地 美濃岩出山 6千石
参加兵力 150 ?
関ヶ原後 本領安堵+迷惑料千石
なるほど、そういう事ですか…。
重門は竹中半兵衛重治の嫡子で、半兵衛といえば信長の斬首命令に叛いて、幼い頃の長政を匿ってくれた命の恩人です。
重門とも顔なじみで、その後も交流があっての同一行動…と思いがちですが、竹中家の領地は昔からこの関ケ原で、領内の地形や道路、移動の所要時間まで熟知しています。

そして東軍における黒田長政のこの戦いでの役割は、西軍諸将に対する寝返り工作と、寝返りを約した武将の行動監視にありました。
そのため、小早川、吉川の陣には監視の家臣を派遣しています。
つまり長政には見晴らしの良い高所に陣取って、西軍諸将の動きを凝視しながら、異常があれば桃配山の家康に対処案も含めて報告する、そんな思惑があっての布陣ですね。
重門は地理アドバイザーという所でしょうか。

次に、長政がなぜ東軍に居るのか…です。
長政の父は御存知:黒田官兵衛で、羽柴秀吉の軍師として天下取りを支えた第一の功臣です。
当然西軍に居るべき家とも言えるのですが、その根っこは黒田家に対する秀吉の待遇にあると思います。
実弟の秀長(百万石)は別格としても、蜂須賀小六(17万石)や官兵衛(12万石)はあまりにも低すぎ、天下を取った当時まだ洟垂れ小僧だった福島正則や加藤清正、石田三成より低いのは“冷遇”に他なりません。
その理由はよく判りませんが、秀吉が故意に官兵衛を働きほどには評価しなかったのは事実でしょう。

官兵衛が味わった屈辱、それはその跡を継ぐ長政とて同じ事で、『もう豊臣家に尽くしても大きく報われる事は無い』事を悟ります。
そして秀吉が死に、徳川家康の存在感が増して来て、その野望が明らかになるにつれて、黒田親子の中に『徳川でもうひと勝負してみようか』と言う気が芽生えたとしたら、実力のある戦国武将としてはごく当然の事だと思います。

この辺りでも出るみたいですね(^^; おや?あれは?
さて、方針が定まれば動きが速い黒田家のこと。
長政は長年ともに矢弾を潜り抜けて来た盟友:蜂須賀の姫を離縁して、家康の養女を妻に迎えて誼を通じます。
関ケ原前夜、長政は徳川の重臣:井伊直政と組んで西軍諸将の寝返り工作に奔走します。
父親に似ず、実戦型の武将と言われる長政ですが、この時ばかりは“官兵衛の遺伝子”をフルに使って説得工作にあたり、なんと豊臣親族の小早川秀秋の寝返りと、西軍最大の“毛利の不戦”を勝ち取ります。

この両家と付随大名が関ヶ原に布陣した兵力は3万5千あまりですから、秀忠の遅参をもチャラにしてしまう成果です。
秀秋の寝返り参戦を見届けた長政は、仕上げとばかりに石田隊の側面に突っ込んで勝負を決めます。
名将:島左近を討ち取ったのも黒田の兵でした。
戦後、家康は長政を“第一の功労”と称え、筑前名島52万石の大封をもって報いました。
感状には『子々孫々までその罪を免除する』とまで書かれてあったそうですから、家康の喜び様は半端ではありませんね。
思えばこの戦いの中で唯一、迷いも悩みもなく参戦し、大戦果を挙げた武将が黒田長政ですね。

『軍師官兵衛より 黒田長政』
反三成急先鋒の7将のひとりですが、捕縛され晒された三成の前を通りかかった時、下馬して自らの羽織を脱いで掛け与え、労りの言葉を述べて敗軍の将への礼節を忘れなかったのは長政だけだったそうです。
つづく