関ケ原陣跡制覇ウォーキング2016』
ある方のブログでこんなイベントがあるのを知り参加しました。
 
 
 いの跡が今も残る関ケ原において参戦武将らの陣跡をめぐる、史上最高の関ケ原公式のウォーキングイベント。
戦国の聖地・関ケ原あつまった英雄たちの戦いや戦国ロマンを肌で感じながら、武将たちの夢の跡をめぐる一日を満喫しませんか。
という主催者の触れ込みです。
 
 
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 近場でもあり、部分的に関ケ原を訪ねた事は何度かあるのですが、時間を掛けてじっくり歩いた事はありません。
  やはり私的に興味の深い時代より少し後の“歴史”である事がその大きな理由なんでしょうが、思えば日本中の武将が大規模に集まり、ギリギリの状況で義と利と欲の狭間で繰り広げた人間模様は関ヶ原ならではと言え、策謀と裏切りの『戦国の聖地』と言えるのかも知れません。
 
今回はそんな各武将の視点をテーマに歩いて見たいと思います。
 
 
ふれあい広場で受付をして、いざスタートです。
 
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受付の行列 1,000人以上の参加者です
 
 前半は東軍諸将の陣所を巡りますが、最初は細川忠興の陣跡です。
 
 
 
ケ原陣跡制覇ウォーキング その1
石田三成に向けられた強烈な憎悪
東軍   細川忠興 37
領地   丹後宮津 18万石
参加兵力 5,000
関ヶ原後 豊前中津 40万石に加増転封
 
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真田丸より 細川忠興 矢柴 俊博さんが“気難しく嫌な奴を懸命に演じていますね
 
 細川忠興は細川藤孝(幽斎)の嫡男で、藤孝が明智光秀とともに足利義昭を伴なって織田信長を頼った時から織田家家臣となり、忠興は信忠に仕えたそうです。
 
 親の藤孝と光秀が親密だった事から、光秀の次女:玉子(ガラシャ)を室に迎え、忠興は妻をたいそう気に入って、大事にした様ですが、親の藤孝や光秀の公家風の立ち居振る舞いには反感を持ってたらしく、武士らしく武骨な信長の態度に憧れ、慕っていたと言われます。
 
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【細川忠興陣跡碑】相川の南岸の低地に布陣しました。 石田隊の陣まではずっと登りで戦術的には不利ですが、忠興にとっては三成の正面である事が重要だったのでしょうね。
 
 信長も忠興に眼をかけ、まだ幼い頃の忠興が信長の脇差に付いていた九曜紋をとても気に入っていたのを覚えていて、後に家紋とする様に指示したという逸話があります。
 そんな敬愛する信長を討った光秀から加勢の要請が来たとき、細川家が動かなかった背景には、忠興の意志が強く働いた事が想像できますね。
 
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忠興の陣から見る笹尾山(石田隊の陣所) その間約800m
 
 その後は成り行きで秀吉に臣従し、家を守った忠興ですが、天下人としての信長象を引きずる忠興が秀吉を心底敬ったとは思えず、秀吉の我儘な意志をズケズケ指示する奉行の石田三成には少なからず反感を持っていた事でしょう。
 
 そんな時に秀次事件が起こり、秀次から多額の借金をしていた忠興は窮地に追い込まれてしまいます。
この借金を肩代わりして救ってくれたのが徳川家康で、忠興の中ではこの時からもう次の天下人=徳川家康という図式が出来上がっていたのかも知れません。
 
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忠興の陣は最初のチェックポイントなので、スタンプ貰うのも長蛇の列です。
 
 秀吉死後、豊臣家への恩顧の薄い忠興は終始家康の与党として振舞い行動します。
そして関ケ原前夜、上杉討伐で遠征してる隙に三成が旗上げし、大阪に残る諸将の妻子を人質に取ろうとします。
これを拒んだ妻の玉子は家臣の手にかかって非業の死を遂げてしまいます。
 
忠興の怒りは凄まじく、関ヶ原では自ら望んで三成の正面に陣取り、終始石田隊と激しく戦いました。
 
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川玉子(ガラシャ)画像  国一とも言われる美貌の持ち主ですが、結婚当初は気位が高く傲慢な性格だったと言われてます。
それが父の謀反と幽閉を経験し、キリスト教に帰依してからは万民への慈愛が身に付き、美貌にも更に磨きがかかったそうです。
の美しさに見とれてしまった植木職人を忠興がその場で斬り捨てた話は有名ですよね。
 
 
つづく
 
PS…真田丸、昌幸がもう死んでしまいました(^^;
武田の24将は、死期が来ると“お屋形様”が迎えに来てくれるんです。
誰にも替えられない、武田信玄の巨きさを描いてくれてありがとうございます。