続いて梅戸城址にやって来ました。
梅戸城を築城した梅戸高実は実家の六角氏の後ろ盾で北伊勢で影響力を強めて行きます。
 
 弘治元年(1555)三月には、六角氏当主の義賢が自ら三千余の兵で来援し、梅戸家に隣接する千種家を攻め、籠城戦となりましたが、結局は千種忠治に六角氏の重臣:後藤但馬守の弟が養子に入る事で和睦となりました。
養子は千種三郎左衛門と称し、これによって、HKS48最大の千種家が六角氏に属する事になり、北伊勢の諸家の多くもこれに倣います。
 
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梅戸家の菩提寺の“光蓮寺” 裏山の上が梅戸城址です
 
 さらに永禄5年(1562)には鈴鹿郡の戦国大名:関氏にも同様に六角氏の重臣:蒲生貞秀の娘二人が嫁ぎ、同盟を結ぶ事で北伊勢での支配を盤石にしたかに見えました。
*娘には5千石もの持参金が付けられたそうです
 
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城址には寺の南100mにある“光蓮寺山公園ウォーキングコース”で登りますが、とてもそんな優しい道ではありません
 
 しかし、これに待ったを掛けたのが尾張の織田信長でした。
永禄11年(1568)、信長が5万の兵で美濃から攻め込むと、桑名郡の諸家は雪崩を打って織田方に靡きます。
 梅戸家では高実が隠居し、次男:実秀が家督を継いでいましたが、単独では抗するべくもなく、実秀は討ち死にし、梅戸城は落城します。
 
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木ではなく竹の森で、すごい数のヤブ蚊が襲ってきます(^^;
 
 この時に高実は城を逃れており、その後に伊勢長島城に入って一向宗と共に信長と戦いますが、天正3年(1575)に一揆が平定されると、長島で切腹して果てました。
 
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 梅戸城址は三岐鉄道北勢線の大安駅の西に広がる台地の南東隅にあります。
台地上には(株)デンソーの大きな工場があるので、良い目印になります。
城址の下にある“光蓮寺”の駐車場に車を置かせて貰い、斜面を登る形でアプローチします。
 
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5分ちょっとの道のりで虎口っぽい地形になり、頂上が見えてきました。 しかし凄い路面です。
 
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頂上に着くと、振り返る形で一本の低い土塁があります。
 
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土塁の上には公園の石碑が建っていて、此処が梅戸城址であると教えてくれます。
 
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その先はやや広めの土塁のあるフラットな郭になり…
 
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その先はもう狭い先端の小郭があって、お寺へと斜面が落ちています
 
 思いのほか小規模なので、拍子抜けする思いで周囲を見て回りますが、斜面の角度からして郭址は見当たりません。
 
 それならと、土塁の反対側(台地の奥側)への広がり具合を確認します。
こうした台地の崖端城は、意外と奥まで広がってて、最後に深い堀で遮断する大規模な城もありますから…。
 
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土塁の反対側(台地の奥側)にはフラットな平地があって
 
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その向こうはもう真っ平らな平地がどこまでも広がっています。
200mほど先まで歩いて見ましたが、堀や土塁の痕跡はどこにもありません。
*奥の緑の森が城址です
 
 梅戸家の居城ともなれば、数千の兵が集まる事もあった筈で、もっと規模が有っても良いはずですが、残念ながら本丸のエリアしか残っていない様です。
台地上の広い平地は現在は雑草が繁るに任せていますが、畑地であったに違いなく、近代に重機を使って開墾された様に見えます。
おそらく、その時に多くの遺構が失われてしまったのでしょうね。
 
やや寂しい想いで下城します。
 
 
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山を降りてから城址の遠景を撮ろうとしたら、電車がやって来ました。 この車両、実は西武鉄道の“お古”なんだそうです。 下のオレンジの塗装が無ければ、ボディもドアの色も…確かにそうですね(^^)
 
 
梅戸家 おわり