久々に地元の城歩きです。
戦国時代の北伊勢地域(三重県北部)には強大な戦国大名による統一がなく、50余りの小豪族により長く分割統治されていました。
俗に『北勢四十八家』と呼ばれていますが、勝手に今風に“HKS48”と呼んで、去年からひとつずつ訪ねて歩いています。
その5番目(やっと^^; )の今回は、チームKの梅戸家を訪ねます。

まずは梅戸家の領地です。
員弁郡の西部、鈴鹿の山から員弁川までの内陸部がその領地です。
梅戸家は最初は“田光家”を名乗っていて、朝明川上流の田光に“田光城”を築いて本拠にしていました。
領内を“八風街道”が通っていて、この街道は十楽ノ津(桑名湊)から物資を運ぶ“近江商人”で賑わっており、その通行税が田光家の大きな収入源となっていました。

そこに目を付けたのが近江の戦国大名の六角氏です。
まとまった勢力が手薄なのを幸いに、八風峠を越えて田光家に圧迫を始めます。
そして当主の六角定頼は四男の高実を田光家に養子として送り込み、乗っ取りを果たしました。

城址の先端に建つ“多比鹿神社” 土地の氏神様は昔の領主様です
高実は田光城より桑名に近い員弁川沿いの梅戸の地に新城“梅戸城”を築いて本拠とし、以後は『梅戸高実』と名乗ります。
梅戸家という橋頭保を得た六角氏は、休む事なく周辺の小豪族を圧迫し、次々に与党に鞍替えさせて行き、遂には十楽ノ津(桑名)の実質支配に成功し、以後は六角氏の大きな収益源となるのです。

本殿の奥に城址が広がっています。
先に田光城から見て行きます。
“田光城”… なんと読むか判りますか?
“たこう”、“たみつ”、“たひかり”… 全部ハズレで、実は『たびか』なんです。
光虫=ピカチュウ みたいな感じかな?とも思いますが、水田の多い場所で“たびかり”と呼ばれてたのが省略されたのでしょうね(^^;
余談ですが、初夏に孫娘ができて、初めて送られてきた写真に『はじめまして、コッコです。』と添えてありました。
『コッコ…? 漢字で書くと“鶏子”か?』…と真剣に悩んだのですが、本名は『心結(こころ)』でした。ひと安心(^^;

神社の境内から城址に行くには、奥殿の神聖な場所を通り抜ける事になるので、一旦外に出て脇の入口から入って行きます。

早速現れる虎口址 常緑樹に覆われた山なので下草が無く、遺構が判りやすく歩きやすい♪

城址は散策用の整備などはされてなく、看板等も一切ありませんが、手付かずの自然の中で保存状態は良好で、数々の遺構が確認でき、縄張りの姿が手に取る様に浮かんで来ます。



西側の川沿いは高い断崖になって落ちています
朝明川の支流の田光川の断崖を背に、東に向けて備えた連郭式の城ですが、本丸と思しき広場も広いので、屋敷を場内に取り込んだ籠城型の平山城です。
この地域には地形上この形が多いのですが、遺構の残存度合が良く、規模も大きくないので、手軽に愉しめる“掘り出し物”的な良い城址です。


一段高くなってるのは物見櫓の基壇址か?
しかし、土の城の基礎知識が必要な上級の城跡には違いないですけどね。
また足元が滑りやすく、マムシの危険もありそうだし、クモの巣も多いので、これから訪ねる方は冬場がお奨めです。
その際はそれなりの装備をお忘れなく。
つづく