真田丸』、来週はいよいよ犬伏の別れになる様です。
犬伏は関東在住の頃に取材済みなので、この旬な機会に(事前に)アップしておきたいと思います(^^;。
 
 
 慶長5年(16007月、徳川家康は上杉景勝が国元で家康の専横に対する弾劾の立場を明確に示した為、上杉討伐の軍を催します。
これは家康と景勝の私怨の色合いが強く、討伐軍には家康をリーダーと仰ぐ大名のみが従いますが、真田家の昌幸、信之、信繁も家康に従って出陣しました
 
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犬伏は栃木県佐野市の東の街はずれにあります。
江戸時代には日光街道の脇街道“例幣使街道”の“犬伏宿”でしたが、当時も上野方面からの最短の主要街道として賑わっていたと思われます。
 
 
 ドラマでは景勝の人間性を慕う信繁ですが、討伐軍に加わり出陣に踏み切った背景を考えると、かなりの脚色を感じますね。
 
 ドラマの設定は違いますが、昌幸の妻:山手殿と石田三成の妻:皎月院はともに宇多頼忠の娘で、二人は義兄弟であったという説が最も信憑性が高いんだそうです。
つまり、源二郎を介さなくても昌幸と三成はドラマ以上に連絡を密に取り合う仲で、上杉討伐と関ケ原に至るその後の対応は事前に両者で打ち合わせてあったのではないでしょうか。
 
 
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三人が軍議をしたと言われる新町薬師堂 例幣使街道沿いの米山古墳の山裾にあります。
ほど近い大庵寺にこの日の陣を張った昌幸は息子達を呼び、三人だけでこの堂に籠って密議をしたと言われます。
 
 
 上杉討伐のとき、信之は国許の沼田に居たと言われます。
昌幸からの出陣の指令に、徳川に近い信之はきっと安堵したと思います。
信繫もまた、徳川に与力する昌幸に違和感を覚えながらも、父の思惑を信じて従います。
二人は上田に戻り、軍装を整えて出発しますが、殿軍に近い形での進軍でした。
*集合場所は宇都宮城か?
 
 
 
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【密議の様子を伝える案内板】
長時間に及ぶ密議で、心配した重臣の河原家綱が覗きに来て、『誰も来るなと言っただろう!』と昌幸に怒られ、下駄を投げつけられて前歯を折った… という話がありますが。
 
 
 畿内での三成挙兵の報を受け、家康は旅陣の小山で軍議を催すべく諸将を招集します。
この時、昌幸はまだ下野に入ったばかりの“犬伏”で、先発していた信之は小山近郊に居ましたが、昌幸の命で犬伏まで呼び戻され、事前に真田家としての意思統一が図られます。
 
 ドラマでは三者三様の立場と主張で紛糾し、誰が勝っても真田は残る!悔いなく思う道を進め的な昌幸の言葉で終わるのでしょうが、昌幸にとって是は既に既定路線で、この日を見越して随分前から信之を徳川に、信繁を豊臣に置いたのは間違いありません。
 
 三成との約定は息子達にも伏せられていたと思いますが、昌幸自身が徳川家康とは折り合えないのは明白で、徳川の世では生きられない事は息子達も理解していたでしょう。
 
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【小山評定が行われた祇園城】下野の豪族小山氏の居城でしたが、戦国末期に北条氏照が大改修した大きな城です。家康は此処に仮設の広間を造り、諸将を集めて軍議を開き、今後の服従を暗に迫りました。
 
 犬伏での軍議はこの事の最終確認と、万一身内で対戦となった時に被害を最小にする“猿芝居”が打ち合わせら、負ける側の最悪の事態を想定して、水杯を交わしたのでしょうね。

 

 昌幸は信繁よりも信之をより愛していたという説もあります。
親として見たとき、手元に残る信繁よりも送り出す信之に“不憫”を感じただけの事だとは思いますが
そんな親子、兄弟の情の交錯を含めて、さて、三谷さんはどう見せてくれるのか楽しみです。
 
 
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2年前に訪ねた時、例幣使街道(県道141)のあまりにもすぐ脇で、すぐには見付けられなかったほど地味なお堂です。駐車場も無かったのですが、現在は『真田丸』対応で六文銭の幟がいっぱい立ち、駐車場も整備されている様ですね。