津山城を歩く 最終回です。
本丸の敷地に入って行きます。
津山城本丸は一面フラットで、同規模の城に比べて若干広めにも感じますが、機能としては本丸御殿のみで、大半は建物で埋め尽くされていた様です。

入ってまず気になるのが、前回採り上げた東向きの石塁です。
当然ですが、やはり同じ高さで横たわっています。
この上にあった建物は一面の多聞櫓かとも思いましたが、実は3基の櫓が等間隔で建っていて、鉄砲狭間を切った土塀でつながっていた様ですね。

本丸側には3個所の合坂が作ってあり、兵士の昇降や弾薬補給は細やかに出来そうです。
素人が思う以上に軍事上大事な場所だったという事でしょう。

南の端の櫓は太鼓櫓という二層の大きな櫓が建っていて、時を報せていたそうですが、現在は簡易な鐘楼が造られています。

本丸南側の高石垣上にあるのが、前回紹介した備中櫓です。
“美作にあって備中とはこれいかに?”ですが、森忠政の娘婿にあたる鳥取藩二代藩主:池田備中守長幸が来訪した際に造ったから“備中櫓”なんだそうです。
忠政は鳥取藩との仲を重視した様で、長幸に嫁した長女:松子が若くして他界すると、四女の宮子を後室として嫁がせていますから、“備中櫓”の命名も頷けます。
ただ、石垣の構造からして、築城当初からこの場所には目立つ櫓があったのは間違いなく、長幸の来訪はずっと後の事なので、何らかの改装をしたのでしょうね。

無料開放されてるので、中に入って見ます。
なんと、この櫓は畳敷きの御殿風の内装なんですよね。
二階には殿様の御座所もあり、“長幸主従の宿舎として用意された”と見るのが自然です。


備中櫓は本丸御殿の至近にあり、現在隣接して造られてる藤棚の場所は、奥女中の長局があった場所だそうです。
“女中達は大晦日には備中櫓で宴会をしていた”という話もあります。

最後に天守台に向かいます。
備中櫓からは石垣で仕切られた迷路の様な通路を通って行きますが…

天守台も剥き身ではなく、周囲を多聞櫓が囲い、簡単には到達できる構造ではありません。

天守台 手前の舗装してある区域は多聞櫓の跡です
天守台内部は一層の地下室を持つ六階建ての構造だった様です。
明治7年までの約300年間、実際に天守が在った事を知ってるからか、妙に説得力を感じる天守台です。


天守台から見る城下の郭内
森忠政はわずか14歳で美濃金山7万石の家督を継ぎます。
兄:長可の戦死による相続で、親兄弟誰一人居ない境遇でした。
森家の血を色濃く受け継いで(?)野心家だった忠政は、秀吉の死後は家康に近侍して評価され、1600年30歳の時には森家の宿願だった信濃川中島を回復します。
*長可が一族の血と引き換えに織田信長から貰った領地でしたが、本能寺後の天正壬午の乱では上杉に攻め込まれ、放棄せざるを得ませんでした。

同年の関ケ原の戦いでは、真田の抑えで終始国元に待機となった為、大きな加増はありませんでしたが、2年後に小早川秀秋が死んで改易になると、美作一国を与えられて津山に入ります。
津山で新たに築城を始めた忠政ですが、諸大名が家康に遠慮して城の備えを軽くする中、徹底して“戦う城”にこだわります。
それは勇猛な森家の血ゆえの事なのか、毛利を始めとする西国大名の抑えを家康に約束しての事なのか…?。
こうして完成した堅城の津山城ですが、幸いその後に戦火にまみれる事は一度もありませんでした。

忠政晩年の1633年、松江の堀尾家が改易になると、忠政のもとに出雲・石見・隠岐3ヶ国への加増転封の話が幕府よりもたらされます。
この破格の条件にも忠政は否定的で、回答を延ばしていました。
これは、自ら心血を注いだ“津山城”への拘りに他なりませんが、そんな中、忠政は京都で急死してしまい、転封の話は立ち消えとなったそうです。

津山城 おわり