津山城を歩く
 
 中国道の津山ICを降りてR53で西に向かいます。
2kmほど走ると吉井川の川沿いに出て、津山市街に入りますが、すぐに前方に巨大な石垣の塊が見えて来ます。
 『鶴山公園(津山城)』の看板に従って船頭町交差点を右折すると、そこからは看板が無料駐車場まで誘導してくれます。
盛夏の訪城でも“お盆休み”だからか、八割方は埋まっています(^^;
 
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高石垣と土塀が続きます。 この下(右手)はもう家臣屋敷街
 
 車を降りるとそこはもう三ノ丸高石垣の下で、石垣と土塀が延々と続く“帯曲輪”状の道路になっています。
この内側が城址保存されてる『鶴山公園』の様ですね。
桜の木の木陰に感謝しながらしばらく歩くと、公園入口にあたる表門が見えて来ました。
 
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入場門となる表門(冠木門)付近 右の建物は入場券売り場です
 
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門外にある築城主:森忠政の像
 
 
 門内に入ると大きな枡形になり、グルリ折り返す様に広い石段になって三ノ丸へと登ります。
 
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大手口でまだ下層の郭とはいえ、ハンパない間口の石段路です
 
 三ノ丸は家老屋敷か、蔵屋敷であったと思われる構造ですが、現在は明治になって城下から移築された藩校『修道館』が建っています。
 
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風情のある旧藩校の建物 城の縄張り図や城下絵図などが展示されています
 
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江戸城、大阪城クラスの規模だった“中表門跡” 二層の渡櫓門で、櫓台の大きさからその規模が測れます。これを抜けると二ノ丸へと続く登り口が現れます(左側の石段)
 
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二ノ丸高石垣と登城路の石段 この辺りは多聞櫓で固められていましたが…

 

 

 高石垣と多聞櫓、そして江戸城にも無いとてつもなく広い階段…。

 

これが津山城の最大の特徴と言っても過言ではないでしょう。
 こうゆう城のコンセプトは、どこか蒲生氏郷の城づくりにも共通している事を感じます。
氏郷といえば、合戦では常に先頭に立って闘った“猛将”で、『蒲生勢を十人も斃せば、必ずその中に氏郷が居る…』とまで言われた人です。
 では、森忠政もそんな猛将だったのでしょうか?
 
 
 
戦国大名森氏 その圧倒的な討ち死に率 
 
 まずは系図を描いてみました。
美濃森氏は八幡太郎源義家に連なる美濃源氏の支族と言われますが、記録が残るのは、可房の代からです。
 
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 森氏は美濃にあって守護の土岐氏の被官だった様で、隣国近江の京極氏(浅井氏)との争いの中で、可房、可秀と相次いで戦死します。
 次の可行は天寿を全うしたものの、その子で織田信長の武将になった可成は、朝倉氏との戦いで信長の弟:信治を護って壮絶な討ち死にをします。
 同じ年、嫡子の可隆も越前攻めで戦死した為、家督は二男:長可が継ぎますが、羽柴秀吉の武将となっていた長可も徳川家康との戦いで戦死しました。
 
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左:森可成(『信長のシェフ』より 演:宇梶剛士さん)槍の名手で十文字槍を振るって先陣で働き「攻めの三左」と異名された。
右:森長可(『真田丸』より 演:谷田歩さん)父と同じく槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。気性の激しい人で、粗暴な逸話も多い。
 
 2年前の“本能寺の変”で、長可の弟三人(蘭丸、坊丸、力丸)がすでに戦死してしまっていた森家には、残された男子は千丸(忠政)のみとなってしまいました。
 5世代で家督継承権のある10人のうちなんと8人が討ち死に。
勝ち抜いて後世に残った家としては誠に珍しい事ですが、戦死した個々人を見ると、自らの刀槍での働きで家臣を奮い立たせ、難局を打破して来た森家の厳しさと激しいDNAの様なものを感じます。
 
 城もまた、そんな城主の闘い方を反映してか、固く守った上で一気に討って出る…闘って勝つ事を目的にして造られたのでしょうね。
 
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津山城天守 復元模型
 
 戦乱の世が終わり、津山藩主となった忠政は65歳まで生きますが、忠政にも森家のDNAを濃く受け継いでる事を示す逸話があります。
 
 津山城は12年の歳月を掛けて竣工しますが、最後に五重天守が建った事を聞いた幕府内では、前年に“元和令”を出したばかりで、問題になります。
*五重以上の高層天守は造らぬ様にと通達されていた。
 詰問の使者を受けた忠政はすぐに四重目の屋根を破却させ、僅かな庇のみ残す姿とした上で、『これは四重天守である! 詰問の筋には当たらない!』と開き直ったので、幕府もしぶしぶ認可せざるを得なかったのだそうです。
 
 
つづく