日本百名城 №67 津山城  登城日 2016.8.14
 
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  城郭構造   梯郭式平山城
   天守構造   独立式層塔型 5重5階地下1階(非現存)
   築城主      森 忠政 
   築城年        1603年着工(慶弔8年)
 城主           森氏 、松平氏(越前家)
 廃城年        1873年(明治6年)
 遺構           石垣、堀 、備中櫓(再建)

 指定文化財  国の史跡
 所在地      岡山県津山市山下
 
 
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広い石段と白壁の土塀が続く武家屋敷街からの登城路
 
 11日間と長めなお盆休みですが、今年は何かと忙しくて、城めぐりはこの1城のみとなってしまいました。
 
 津山城は生まれ故郷の岡山県の北部(美作国)にあり、小学校の遠足で訪れて以来、3度目の訪城になります。
 
 美作国は中国山地の山間に広がり、小盆地が連なる耕地の少ない小さな国(26万石ほど)で、律令国の成立時には備前国の一部でした。
しかし砂鉄や銅などの鉱物資源が豊富だったため、備前の勢力“吉備氏”の弱体化を狙って大和政権により分国化されたそうです。
 
 こうした山間の小国には、武士の世にも独立した勢力は育ちにくく、美作の国人達は山名、赤松、尼子、宇喜多と、常に周辺の強豪勢力の傘下にありました。
 
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一二三段の高石垣上に近年復元された備中櫓
 
 
 関ケ原の合戦後、宇喜多秀家の領地を受け継いだ小早川秀秋がわずか2年で断絶・改易になると、美作には川中島(13.7万石)から森忠政が入り、18.7万石の国持ち大名となります。
美作国が初めて自前の一大名によって(ほぼ)支配された瞬間です。
 
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津山城古写真(明治初年) 天守も明治まで残りましたが、櫓が林立する日本有数の壮大で城らしい景観をもつ城でした。
 
 忠政は国衙のあった一番広い盆地を中心に定め、山名氏の古城跡の“鶴山”に新たに築城を始めますが、その規模が実に半端でなく、総石垣の高石垣を一二三段に積み上げ、その上には5層の天守をはじめ77棟もの櫓が林立していたそうです。
 この数は姫路や広島(50万石以上)の城をも超える規模のもので、重税に喘いだ領民の反発は、後々の森家の藩政を苦しめる事になります。
 
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津山城下図 忠政は吉井川の水運を利用した城下町を構えます
 
 
 森家が4代で改易になると、越後高田から松平宣富(越前家)が10万石で移封して来ます。
越前家は結城秀康の子孫で御家門筆頭の家柄ですが、鳥取、岡山の池田両家(ともに32万石)の間に割って入る形にもなり、それなりの使命を帯びての事だったのでしょうね。
しかし、宣富は秀康の嫡子で反逆・改易された忠直の系統で、越前家には他に
福井藩 32万石 … 秀康の二男の子孫
松江藩 18万石 … 秀康の三男の子孫
前橋藩 17万石 … 秀康の五男の子孫
などの雄藩があり、越前松平家の中での宗家争いが熾烈だった様です。
 
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三ノ丸から見下ろす城下(東方向の町人街)
 
つづく