今回最後の訪城は羽柴秀吉が大名となり初めて築いた“長浜城”です。

天正元年(1573)、浅井氏を攻め滅ぼした織田信長は、浅井旧領のうち居城の小谷城とその周辺をこの戦いで功労の大きかった秀吉に与えました。
初めて城持ち大名となった秀吉は、堅固な山城の小谷城ではなく、琵琶湖岸の“今浜”の地に新たな築城を願い出て赦され、水城を築き始めます。
同時に城下も小谷から移転させて整備し、地名も信長の長の字を貰って“長浜”と名乗る事としました。
何とも…抜け目のない男です。

歴史資料館にある想定復元図 水堀の面積比が大きいですね
こうして出来上がった長浜城ですが、“なぜ場所を変えたのか?“という疑問がまずあります。
『浅井長政の祟り…』といった非現実的な思考は秀吉には当然ありません。
小谷城は戦国の城らしく、戦いに特化した難攻不落の山城でした。
北国街道のこの地は北陸からの外敵に備える重要な地で、普通の武将ならそうした思考を巡らすのでしょうが、秀吉は違いました。
この時、北陸の雄:朝倉家も既に滅んでおり、越前には超強敵の上杉謙信に対峙すべく重臣の柴田勝家が派遣されていました。
つまり湖北の守りを固める事は勝家に対する不安・不信を意味します。
これまた、抜け目のない気の遣い方ですね。

城址公園から安土方面を臨む 左のホテルは“鳥人間コンテスト”でよく映ってますね
それより、信長と秀吉が重視したのは琵琶湖の水運でした。
信長が領主の時期、琵琶湖岸には湊の機能のある水城が次々と造られました。
近江は京に隣接し、古くからの街道がたくさん整備されていましたが、橋梁やトンネル技術が未熟な当時、陸路を辿るとUP/DOWNがやたら多く、また沢山の河川を渡るのも難儀を伴ない意外と時間が掛かるものでした。
琵琶湖は波も穏やかで、湊と船さえあれば大量の物資を短時間に効率良く運ぶ事が出来ました。
つまり、有事の際には大軍をショートカットで一気に展開できる…“信玄棒道”と同じ発想に経済効果も加味した、その南北の最重要拠点が坂本城と長浜城だったのです。

“安土の両翼”とはよく言ったものです
長浜城には秀吉の後は柴田勝豊が入り、賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が入りました。
この時、近畿地方は“天正大地震”に襲われ、秀吉も伏見城で被災しましたが、一豊は長浜城で一人娘を失っています。
徳川の世になると井伊直政の領地となり、井伊家は新たに彦根に築城したので、長浜城は廃城となり、その用材として使われました。
長浜城を歩く
長浜城址は現在『豊公園』として整備されていますが、前述の通り遺構と呼べるものは殆どありません。

水辺に石垣を積んで城址の雰囲気を創っています
琵琶湖の水城の遺構が残らないのは共通した特徴ですが、資材を転用しやすいのに加え、市街化しやすい環境も開発を促進するのでしょうね。

北の木之本方面 真ん中の山は賤ヶ岳から峰続きの山本山で平安末期には“源義経”の城があった事で知られます

模擬天守(中は資料館)がありますが資料が無く、犬山城がモデルだそうです
長浜城の天守は彦根城に移築され、西ノ丸三重櫓になったという説もあります
【追記】
滋賀県の名前の由来は勝手に“志賀”かと思っていましたが、本当は“石処”だそうです。
スイーツ屋さんを“甘味処”と言う使い方と同じで、『いしか』石の名産地という意味だそうです。
大消費地に近い石の産地に石工が育ち、『穴太衆』につながるのです。
しかし、律令国の複数もしくは一部が範囲の県は仕方ないにしても、そのまんまの県は旧名の『近江県』で良かったのに…と思いますね。

おわり