琵琶湖西岸を北上しながら湖西の城を巡って来ましたが、“湖北”地域に入り“長浜城”を目指して走ります。
 
  湖北は滋賀県で有数の豪雪地帯の様で、塩カルの影響か茶色い道路が続きます。 歩道も屋根がついているので、相当に降るんでしょうね。
  マキノから木之本に抜ける幾つかのトンネルを通過しますが、最後のトンネルを抜けると“賤ヶ岳古戦場”の看板が見えたので、ちょっと寄り道して行きます。
 
 
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賤ヶ岳には、リフトに乗って登って行きます
 
 賤ヶ岳正式には賤ヶ岳砦址となりますが、清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家が覇を競った“賤ヶ岳の戦い”の激戦地として有名ですね。
また、福島市松、加藤虎之助など、秀吉子飼いの若い武将たちの出世の戦い(賤ヶ岳の七本槍)としても知られています。
 
 
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リフトを降りて、なお200mほど歩きます  麓の方から土塁や虎口が続いてないのが、臨時の砦なのを現していますね
 
 今回初めて訪れるのですが、私自身はこの戦いをそう高く評価してないから、脚が向かなかったというのが正直なところです。
 
  両力が互いに死力を尽くして戦った第四次川中島などと比べると、佐久間盛政の奮闘はあるも、柴田方諸将には日和見のスタンスが強く、勝負の帰趨は見えた上での“小競り合い”の域を出ない戦いだったと思っています。
 
 
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山頂に広がる砦の遺構 そこそこ賑わっています
 
 
 賤ヶ岳の戦いをもう少し深掘りすると
信長の方針を踏襲して織田家を再構築し、あくまでも織田家による天下統一を進めたい勝家と、織田家臣団を軸に、自らが信長に成り代わって天下人への道を目指したい秀吉の戦いです。
  勝家にはたぶんTOPに立つ意志は無く、そこが甘さとなって秀吉に付け込まれてしまいます。
 
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豊臣秀吉が布陣した木之本周辺 遠くに伊吹山、その手前の山は小谷城跡です
 
 勝家は清須会議で方針が決まり、一段落するとキナ臭さが残るにも拘わらず畿内には留まらず、領地北ノ庄に帰って越年してしまいました。
 秀吉はこの好機を逃さず精力的に多数派工作を進め、翌年春に湖北で対峙する頃にはもう大勢は決まっていたと思われます
 
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  年が明けた2月、勝家は満を持して湖北に出陣して来ます。
前田利家を始めとする勝家の与力大名達も、領地と命令系統の絡みで仕方なく着陣しますが、ハナから戦意は低く、寝返るタイミングを見計らっていた気がします。
 
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柴田勢が布陣した湖北の山々と主戦場となった余呉湖
 
 織田の家臣達には信長の恐怖政治に対する畏怖があり、織田家の支配の枠組みと治政の継続を目指す旧態依然とした勝家より、奔放で明るく気軽に話せる秀吉に次のリーダーの資質を見出していたとしても不思議では無いでしょう。
 
 結果として賤ヶ岳の戦いは主に、勝家の養子で甥の佐久間盛政(鬼玄蕃)と秀吉の直臣達との戦いになります。
  盛政は大岩山砦の中川清秀を襲って敗死させると、岩崎山の高山右近を襲って追い落とし、次には黒田官兵衛ら秀吉の直臣勢と直接戦闘を始めます
 
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戦場の看板の前で、ボランティアさんが合戦の解説をしていました。 物語の主役は盛政でした。
 
  賤ヶ岳砦は桑山重晴が守備していましたが、敵中に取り残される形となったため撤退を始めたところ、琵琶湖から丹羽長秀が上陸して来たので、合流して盛政の背後を襲います。
 
  盛政が劣勢になると、そのうち勝家の与力勢の戦線離脱が始まり、柴田勢は総崩れとなるのです。
つまり、賤ヶ岳ではさしたる激戦は行なわれていないのが史実の様です。
 
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この光景が見られたのは、少し違う場所の様ですね
 
 戦後、柴田側の旧領は秀吉子飼いの直臣達に分厚く配分されます。
それはその後を睨んでの羽柴家単独での飛躍的な勢力の拡張を意図したものに他なりませんが、それを正当化する為に本槍の活躍が創作されたのだと思います。
 
 
 後日、賤ヶ岳で激戦を戦った記憶を持たない加藤清正は、七本槍と言われる事をとても嫌っていたそうです。
 
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居るみたいですよ(^-^;
 
 
 
 
つづ
*次回は最後の目的地:長浜城を訪ねます