坂本からR161バイパスに乗って一気に北上し、次は近江高島の大溝城址を目指します。
 
 当時、日本屈指の肥沃な穀倉地帯が広がっていた湖東に比べ、比良山系が迫る湖西は山がで、さしたる平野もありませんが、高島郡の安曇川流域まで北上するとまとまった耕地が広がります。
 高島郡を含む北近江は戦国中期までは守護:佐々木氏(近江源氏)から分かれた京極氏が支配していました、下剋上の世を反映して家臣の浅井氏が乗っ取てしまいます。
浅井氏は後に同盟した織田氏に反逆して滅ぼされてしまい、近江全体が織田氏の支配に変わりました。

 

イメージ 4
 
 
 織田信長が安土城を築城して拠点を移した天正4年(1576)頃、高島郡は一族で甥の織田信澄に与えられ、信澄は琵琶湖畔に大溝城を築城しました。
 同じ頃、信澄には明智光秀の娘が嫁しており、大溝城も坂本城同様に光秀の縄張りによる水城だった様です。
 天10年(1582)6月、信澄は従弟の織田信孝(信長の三男)が率いる四国征討軍の副将として大坂で渡海準備をしていましたが、その時、明智光秀が本能寺に信長を襲ってしまいます。
 信澄の光秀との内通を疑った信孝は、重臣の丹羽長秀と謀って信澄を殺害してしまいます。
*信澄は信長が騙し討ちした弟:信行の嫡男であり、祖母:土田御前の嘆願で助命され柴田勝家に預けられ育った経緯がありました。
 
 
 羽柴秀吉の時代になると、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰などが短期で入れ替わりますが、天正12年(1584)には旧主でもある京極高次に与えられます。
*高次の姉の竜子は秀吉のお気に入りの側室だった
 
イメージ 1
大河ドラマより 京極高次(斉藤工)と初姫(水川あさみ)
 
 高次に旧臣:浅井家の三姉妹の初姫が嫁いだのもこの頃の様です。
高次は天正18年(1590)には近江八幡に転封になり、高島は直轄領となって代官が置かれます。
 
 江戸時代になって、伊勢上野城から分部光信が2万石で入りますが、元和の一国一城令により大溝は廃城とされ、大部分が破却されるも、分部氏は三の丸跡に陣屋を構えて代々世襲し、明治を迎えました。
 
イメージ 2
江戸期の大溝陣屋  天守台は残され琵琶湖の水運が有効に使われていた様です
 
 

 

大溝城を歩く
 一般にはあり聴かない名前の城だと思います。
大きな歴史の舞台でもなければ、遺構も殆ど残っていないので無理も無いのですが、子供の頃に見た此処の天守台の石垣の写真に何故か惹かれるものを感じたのを思い出しての初訪城です。

 

 ここでのランドマークは“高島市民病院”。 湖西線:近江高島駅の隣りにありますが、病院の駐車場に接して城址があるからです。
という事で、病院の駐車場をお借りします。
*土曜日で休診なのか、殆ど空いてます。料金も短時間だったので無料でした。

 

 
イメージ 3
かなり荒れている(^^;)
 
  なるほど、駐車場の片隅にフェンスで囲われた荒地があり、樹林の中にポツンと天守台の石垣が見えますが、遺構としてはそれだけの様です。
 この病院自体が城址に建っていて、以前は田んぼだった様ですが、こうして公共施設が整備されたという事は、“市の史跡”である大溝城の整備は今後も天守台のみなのですね。 

 

 天守台に入ってみます。
高さはさほどない4m弱の石垣ですが、他の城よりかなり大粒な花崗岩が使われています。
それもすべて角が丸くなった自然石ですから、安曇川上流の河原から集めた石なんでしょうか。
やはり、味わい深い石積みです。
 
イメージ 5
かつての濠は、雑草の海でした。 これは酷い
 
 天守台の周囲は深い雑草に覆われた帯曲輪の様なスペースがあり、その向こうは堀?なのか沼?なの水面が見えます。
 
しかし、この時期に水辺の深い藪には迂闊に近付けないので、確かめる術はありません。
 
 
 気のせいかも知れませんが、以前に見た写真より天守台の崩落が進んでる気がします。
 
 手を加えず自然に保存するという考え方も有ると思いますが、もう少し見学環境を整備して貰えないものでしょうか。
 
イメージ 6
 
 
 
 
 
つづく