大津城址から湖岸道路(R161)を5kmほど北上すると、坂本になります。
この地の歴史は古く、日吉大社の門前町であったのに加え、平安時代の初めに最澄が延暦寺を開くと、近江側から比叡山に登る登山口にあたり、信仰の町として栄えていました。
 また、南隣の“穴太”は堂塔伽藍や石段の石材を加工・運搬する基地でもあり、かつては近江で一番繁栄した地域でした。
 

 

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坂本城址公園に建つ明智光秀像 今風のデザインですね…
 
 元亀2年(1571)、比叡山を焼き討ちした信長は重臣の明智光秀に滋賀郡を与え、近江勢の征討と共に延暦寺の監視を命じます。
 光秀は領内の地から坂本を選び、支配拠点としての“坂本城”を築城します。
ここで光秀は岐阜~京都間の導線を確保する傍ら、六角氏、浅井氏などを攻撃して、近江を平定して、やがて信長が本拠地を安土に移転する下地を作り、“天下布武”に大きく貢献する事になります。

 

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城址公園から安土方面を臨む 長浜城と並び“安土の両翼”と称された名城でした
 
 坂本はまた、延暦寺で一線を退いた高僧達が山を降りて隠居坊を構えた地でもあり、光秀はこうした“長老”達をクッションにして平和裏に延暦寺との融和を画策したのかも知れませんね。
 いずれにしても、坂本城は延暦寺からは一望のもと見下ろせる眼下にありました。
天台僧達に“見せる”坂本城はそれだけに、当時としては桁違いに広大で豪壮な城だったに違いありません。
ルイス・フロイスの『豪壮華麗で安土城に次ぐ名城』という記述からもそれは明らかですが、残念ながらその全貌はまだ明らかになっていません。
 

 

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城址公園は小さいながらも綺麗に整備されていますが…
 
 
坂本城址を歩く
 浜大津から湖岸沿いにR161を北に走ります。
5分ほどで坂本地内に入り、右手に『坂本城址公園』があるので、そこのPに駐車します。
目印は朱い鳥居です。
 
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公園の手前にある鳥居状の建造物 意味は不明ですが良い目印になります
 
 
 公園自体はさほど広くはないのですが、光秀の石像があり、低い石積みなどで城址の雰囲気を造ってあるので、グルリと歩いて見ますが、坂本城の遺構は何もありません。
 
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この公園はどうも城域からは南に外れた城外らしいですね。

 

 国道を渡って、城址碑があるという市街地に入って行きます。
お寺が点在し歴史はありそうですが、あまり変哲のない街並です。
旧北国海道らしい路に出て少し歩くと三叉路にひっそりと城址碑がありました。
 
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唯一の遺構を示す城址碑 ここは二ノ丸の南虎口だったようですね。
 
 周囲を気を付けて見ていますが、城の遺構を感じさせるものは何も見当たりません。
教育委員会的な看板もなく少し予想外でしたが、それだけ時代が流れた…という事でしょうか。
 

 

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この石塔は出土品か?
 
 坂本城は“山崎の戦”の敗戦後、一族の明智秀満が籠って抗戦しますが、最期は火を掛けて自害し落城します。
 廃城になった坂本城の資材は大津城築城に転用され、跡形も残らぬ程に持ち去られた…という事でしょうか?

 

 大津城もまたすぐに廃城となり、その資材を使って膳所城が築城されます。
いずれも琵琶湖畔の水城。
水運に便利な立地からリサイクル率が高くなり、遺構が残らなかったのでしょうね。
 
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さすがに比叡山は近いです

 

  しかし、明智光秀ほどの武将が、地元というべき近江坂本であまり優遇されていないのは意外でした。
光秀を調べ出すと深くなるので、また後日に取り上げる事としますが、かつては“裏切り”の汚名を着ていたとはいえ、記録や伝承に捉われない戦国武将の深層研究が進んでいる現在、石田三成の様に復権する武将も少なくありません。
 光秀の場合、とても有能な武将だったのは間違いない所なので、もっと地元に顕彰してもらってもいいのでは… などと想いながら次へと向かいます。
 

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無念じゃ…
 
つづく