先週末に雑草退治したので、今週は1日だけ暇ができました。
鈴鹿峠を越えて、久々に城あるきします。

名神高速を大津で降りて湖岸に向かうと、まずこれが見えて来ます。
大津城天守? いいえ、“琵琶湖文化館”という現代の施設です。
城址の宝庫といわれる近江の国を象徴する文化の形が“城”なんでしょうね。
大津城跡はここからもう少し北にあるのですが、残念ながら遺構は何も残っていません。
ただ、普段訪ねる城の殆どはそういう城跡なんで、問題ありませんけど…。
浜大津マリーナの地下Pにクルマを停め、周囲を散策します。

駐車場の脇、国道沿いに城址碑がありますが、

この位置はもう本丸の湖岸沿いだったのですね。
大津城は天正14年(1586)豊臣秀吉の命で浅野長政が築城しました。
大津は京都の東の玄関口にあたる要地で、琵琶湖の水運を束ねる上でも此処を抑える必要があったのでしょう。
少し北の坂本には、かつて坂本城があり、明智光秀の居城になっていましたが、山崎の戦で敗れ滅んだ後に廃城され、大津城築城の用材の多くは坂本城のものが使われた様です。

城址から琵琶湖に向けて埋め立てられ、ヨットハーバーになっています

城は内陸の比叡山の方向に広がっていた様ですね
大津城主は浅野長政、増田長盛、新城直頼と豊臣官僚が続き、文禄4年(1595)には京極高次が6万石で入ります。
京極家は古くから近江を治める氏族(佐々木源氏)で、畿内の人心の安定を意図した人事だったのでしょうね。
5年後の関ケ原の戦で東軍に与した高次は、西軍の中に孤立する形となり、毛利勢、立花勢1万7千の猛攻を受けます。
しかし、高次自身も負傷する程の激しい籠城戦は半月に及び、結局は降伏・開城するのですが、その時点では関ケ原で本戦が始まっており、勇猛な毛利・立花勢を釘づけにし参加させなかった功績は後に家康から高く評価されます。

城址の案内看板など何も無いので、スマホの地図を見ながら歩きますが…

なぜか青少年諸君もみんなそうしてますね…???
ポケモンGOだけどw
戦後、家康は大津城を廃城とし、南に新たに“膳所城”を構えます。
これにも、大津城の遺構が多く使われましたが、4層5階の大津城天守は彦根城へ移築されたと伝わります。

旧外堀のすぐ西には天台宗総本山の園城寺(三井寺)。
強大な寺社勢力への牽制も大津城の大きな役割でした。
つづく