『沼田城址から建造者を探る』
最後は実際に残る沼田城の遺構から、信之の城、或いは昌幸の意志の入った城かどうかを見てみます。
沼田城は利根川と片品川、そして薄根川が造った台地上に建つ崖端城なのは良く知られています。

太古の昔、赤城山の溶岩流で堰き止められ湖底だったこの地は、堆積とその後の浸蝕が重なって、比高差50mもの台地が形成されていて、その断崖に面した沼田城は東側にしか攻め口が無く、極めて攻め難い城でした。

赤城山麓の長井坂城址から見た沼田盆地
利根川の浸蝕で水が抜け盆地になった様子がよく判ります
限られた予算の中、この城を更に強化する…という目的を持って、歴戦の雄の昌幸や信之が改装に取り組んだとして、果たして天守という選択をするでしょうか?
私はまず東側の堀の強化(鉄砲対応に50m以上の幅に拡幅し、土塁を掻き揚げ高低差を高くする)と反撃に転ずる為の馬出しの整備を最優先でするだろうと思っています。
城の破却とその後の市街化で、その辺りの遺構は確認できませんが、ここでまた信頼する『余呉さんの復元図』をお借りして検証して見ましょう。

『余呉クンのホームページ』より勝手に借用 いつもお世話になります
ご覧の様に天守はあるものの、二ノ丸、三ノ丸部分にはあまり工夫の跡は見られず、変哲のない縄張りです。
続いて数少ないながら“真田の遺構”と言われる現存の遺構を見てみます。
西櫓と隣接する虎口と言われる石垣と石段です。

虎口には門があり、それを側面から守るのが櫓ですが、段丘側とはいえいかにも貧相に見え、五重天守を持つ城の虎口というより戦国の城そのままに見えてしまいます。
次に天守台跡と言われる小丘に来ました。
しかし、どう見ても此処に五重天守を支える15mの高石垣の天守台が有った事がどうにもイメージ出来ません。

『真田氏改易後、沼田城は徹底的に破壊されたから遺構が残らない…』というのが定説になっていますが、これも私は不自然に感じています。
信利が何をしたのか? 謀反を起こした訳でもないので、幕府には昌幸の上田城の様に徹底的に破却と言う程の恨みは無い筈です。
実際、改易後の処分も幽閉で終わっていますしね。
因みに、島原の乱後の松倉重政は極刑とも言える斬首に処されていますが、立派な島原城は残され、次の大名に活用されています。
こう見て来たとき、沼田城は五重天守は有ったものの、城全体が強化された堅城だった訳ではなく、基本は戦国のままの城址に見栄だけの天守がポツンと建つ、あまり意味の無い城になってしまっていた可能性が極めて高いと感じています。
以上が私が寛文2年(1662年)信利建造説を自然に感じる主な理由です。
そうすると、正保城絵図との整合性が取れないのですが、そこは酒井忠清の政治力がモノを言う所で、五重天守の認可や絵図の改訂(描き足し)など、造作もない事だった筈です。
『真田丸』の人気で盛り上がる沼田市、信之の復権も進んで、個人的には嬉しく思っているのですが、凄い武将=デカイ天守『あの真田信之が造った五重天守を復元!』といった安直な価値観には賛同できません。
昌幸に信之、そして信繁も加え、彼らが凄いのは『戦って勝つ』事に特化している事で、城に対しても虚飾や華美とは対極の価値観を持っていたであろう事です。
・真田信之は最後の戦国武将といえる実戦的な思考の武将だった。
・見栄や体裁に捉われる事なく、武士として常に来るべき有事に備えて余力
は蓄財に回していた。
・信之にとっても本願地は信州小県であり、昌幸と築き守った上田城の復活が最大
の宿願だった。
…こうした信之像の方が巨城を建てた英雄より余程カッコ良いと思うのですが…。
皆さんはどうお考えでしょうか?
おしまい
何時もながら、これは一個人のひとつの意見であって、他を否定、誹謗、中傷する目的のものではありませんので、悪しからず。