次に3つの建造年説とその時の真田家の状況を順を追って見て行き、天守建造の必然性を探ります。
『慶長2年(1597年)と真田家』
“関ケ原”の3年前、真田家の当主はまだ昌幸で、上田城を本拠にしており、沼田城は支城として信幸が城代をしています。
“小田原征伐”で沼田城を取り戻した7年後で、天下統一を果たした豊臣の世は盤石にも見え、朝鮮の役で諸将の眼は海外での活躍に向いています。

肥前名護屋城
天下統一を果たした秀吉は、諸大名を動員しここを拠点に朝鮮へと進攻します。総無事令でもう国内に戦いは無く、武将の活躍の場は外国でした。
真田家は独立大名であるものの、東国のリーダー徳川家康の与力大名としての位置付けで、関係も良好でした。
*伏見城普請で物要りな時に、本拠の上田城の改修ではなく、寄親の徳川を刺激する様に、沼田の支城を豪華に整備する理由がどこに有るでしょうか?
*後詰めで朝鮮渡海を免れた真田家には、替わりに伏見城普請の賦役が課せられます。
『慶長12年(1607年)と真田家』
“関ケ原”が終わって7年。
信之には父:昌幸の旧領相続が許され、破却された上田城ではなく沼田を居城にしていましたが、徳川政権での真田の立場は微妙です。
2年前に徳川秀忠が将軍になってからは、あからさまに賦役が増えたとも言われます。

上田城址
真田発祥の地:真田郷に近いこの城は智将:真田昌幸を象徴する城でした。
関ケ原の前哨戦でここで苦しめられた徳川秀忠は、戦後徹底的な破却を命じました。現在に残る遺構は、その後に入った仙石氏が築城したもので、昌幸の城とは全く別物です。
そんな中、信之は沼田を信吉に任せて、上田城址に陣屋を建て移り住んでいます。
真田の本願地は信濃:小県…この思いは信之には特に強かった様で、この時の為に倹約して蓄財し、同時に幕府に上田城の再築城を願い出ますが、これは許されず、逆に元和8年(1622年)秀忠によって松代へ移封となってしまいます。
信之の落胆と怒りは凄まじく、この事を裏付ける様に、信之は上田を去る際に城址のありとあらゆるモノを松代に運び、幕府への憤懣を形に示しました。
松代に移った時点では築城資金が20万両も貯め込まれていたそうですが、その金が松代城の拡張整備に充てられる事はなく。
13万石の大名の城としては異例な質素さで現在に伝わっています。

松代城址
13万石の大名の居城にしては至って質素で、最低限の備えしかありません
父:昌幸が心血を注いだ上田城を何とか… その望みが絶たれた時、もう持ち城に対する見栄や拘りも無かったのかも知れませんね。
その当時、真田信之という特別な大名が戦備を整える事がいかに難しかったかを物語っています。
『寛文2年(1662年)と真田家』
明暦元年(1656年)、信之が93歳の高齢で世を去ると、真田家は要観察の特別な家ではなくなります。
将軍はもう4代:家綱の治政になっていました。
信之の子の信吉、信政はすでに亡く、信之が後継を信政の子:幸道に決めた事から信吉の子で沼田領を見ていた信利が反発し、御家騒動にまで発展します。
信利には妻の実家の土佐藩や“下馬将軍”酒井忠清らが後ろ盾になりますが、信之は沼田領を別家として信利に与え、沼田藩初代藩主とする事で強引に収拾します。
だが、まだ火種の収まり切らない中での死でした。

嫡流信綱の血をひく信利には自分こそ嫡流の意識は強かったかも知れません
信利はその後も松代の宗家を過剰に意識し、沼田城や江戸屋敷を豪華に改装して行き、この時に五重天守を建てたという説もあります。
その資金ですが、3万石の石高に対し何と14万石の収量を幕府に登録して、領民に相応の酷税を課しました。
島原城の松倉家と同じやり方ですが、こちらもそんな藩政が長続きする訳もなく、天和元年(1681年)に一揆が起こって幕府の知る所となり、沼田藩は治世不良として改易になります。
信利は山形藩奥平家にお預けとなり、沼田城は破却解体され天領となったそうです。
(下)へつづく