NHK大河ドラマ『真田丸』がとても好評で、上田城、岩櫃城、沼田城などは賑わっている様ですね。

真田(昌幸)の追掛け訪城を始めて3年あまり、多くの史実とも巡り合えて、昌幸だけでなく信繁、信之などの人間像も次第に判って来ました。
特に信之は、武将としても殿様としても真田家を代表するほど優れた人だったと思っています。
今まで弟の名声に隠れて、相対評価で軽く見られる事が多かっただけに、配役:大泉洋と聞いて『またか!』…と危惧していましたが、大泉さんが意外な演技で史実に近い信之を見事に演じてくれていますw
真田の城址を持つ各自治体もこれを機に観光に力を入れ、施設だけでなくHPや看板、パンフなど充実させている様ですが、そんな中で、まったく予想外な記述がされているモノを発見してしまいました。

ご覧の様に、沼田市観光協会のHPでは沼田城の“幻の天守”は真田信之の建造となっており、他の観光客向けパンフでも軒並みその様に記載されています。
沼田城の五重天守については、一時期確かに存在して、壮大なモノだったと言われています。
実はその実像に迫るのも、沼田城を訪れる時の楽しみだったのですが、城址の現状と色んな背景から、『沼田藩初代:真田信利説』でほぼ納得していました。
まさか信之の名が出て来るとは…思いもよりません。
そこで今回はこれを様々な視点から、少し掘り下げてみたいと思います。
上野沼田城正保城絵図

正保城絵図は、正保年間(1645~48年)に幕府が諸藩に命じて作成・提出させた城下町の絵地図で、是を元に幕府は城の変化を監視しました。
絵図には本丸壇上に五重の天守が描かれており、これが天守が存在した事を証明しています。
しかし、前の想像図の様に高石垣の天守台ではなく、本丸の平地に直接建てられ、しかも石垣のラインからは幾分内側にオフセットされて、1階が土塀に隠れているあたり、土木技術の面から不自然さも見られます。
この絵図がホンモノなら、沼田藩立藩前にすでに有ったという事になりますが…。
改めて沼田城天守についての記述資料を調べたところ、専門家でも意見が分かれる様で、建造年と建造主は…
①慶長2年(1597年)真田信幸説
②慶長12年(1607年)真田信之説
③寛文2年(1662年)真田信利説
…と、3つの説が有る様です。
『五重天守の重さとは』
まず、当時の武将にとって大型天守を持つ意味と重さとはどんなものだったのでしょうか。
そこで戦国末以降、日本の城にあった五重以上の天守をリストアップして見ました。
なお一大名個人の城という観点から、天下人の城や天下普請の巨城は除きます。

ご覧の様に、織豊期以降の著名な“国持ち大名”が並びます。
大天守が権力と富の象徴である様に、その経済基盤も真田家とは桁違いですね。
慶長12年の真田信之にのみ無理すればかろうじて建てられる…という感じです。
唯一、松倉重政の島原城の存在が全ての説に可能性を覗わせますが、その後島原で起こった事を考えると、良いヒントになるかも知れません。
(中)につづく