お待たせしました。 不評の彦根城もやっと最終回です(^^;
佐和口門と表門
玄宮園を出て内堀沿いを東に進むと、佐和口門に至ります。

堀端は長塀が続きます
この門は中堀から城下に出る三門のひとつで、入って来た京橋門(大手)に対して搦め手の役割だったと思うのですが、彦根駅から真っ直ぐの位置にある関係で観光施設も集まり、実質は彦根城観光の大手門になっています。

ここは佐和山城から移築した櫓門、多聞、隅櫓で固められていて、明治維新で破却されましたが、近年復元され、直弼関係の展示館になっています。
ちょっと覗いて見るつもりでしたが、同行者が“デニッシュたいやき”なるものを所望したため、大幅に時間をロスしたので外観見学のみにします。
こうゆうのも大事ですが、その結果が『普通のたいやきの方が美味しい!』では報われません…(^^;)
佐和口門を左手に見ながら進むと本丸表門があり、門内には彦根城博物館があるので最後に入って行きます。
佐和口門を左手に見ながら進むと本丸表門があり、門内には彦根城博物館があるので最後に入って行きます。
この博物館は博物館を前提に本丸表御殿を外観復元したもので、名古屋城本丸御殿などとはコンセプトが違います。

館内は広くて、書画や調度品など多数展示されていて、それなりに見応えはあるのですが、期待していた甲冑は10代直幸と家老:木俣氏のもの2領のみの展示でした。
井伊家は初代直政以来、赤備えの甲冑を代々の当主が造っている筈ですが…。
やはり“平和教育”という観点なのでしょうか?
井伊家の殿様③ 井伊直弼
最後に取り上げる殿様は予想通り井伊直弼です。
直弼は11代:直中の14男として生まれました。
幼少から聡明だったそうですが、庶子の直弼には兄達の様に養子の先もなく、32歳まで部屋住み(居候)の身で過ごします。
この将来の展望が無い期間、直弼は学問や武術、芸術に親しむ事に費やし、それが後に活きる事になります。
父:直中を継いだ兄:直亮には嗣子がなく、これまた兄の直元が後継者に決まっていましたが、直弼31歳のとき直元が急死してしまい、一人だけ残っていた直弼に後継の座が転がり込んできます。
その4年後、当主:直亮の死を受けて直弼が35歳で13代当主に就任しました。
直弼は譜代筆頭井伊家の家格もあって、すぐに江戸城の幕政の中心になって行きます。

教科書でお馴染み 井伊直弼画像
折から欧米列強の来航が続き、強い開国要求を受けての極めて難しい時代でしたが、43歳で直弼は大老に就任し、幕藩政治のTOPに登り詰めます。
直弼の断行した政治には賛否両論が有ると思います。
『安政の大獄』での弾圧が厳しかった分、否定的な声が多いとも思いますが、150年後の後世に生きる者としては直弼の評価は客観的かつ冷静に行ないたいと思います。
列強の外圧に対し、当時の国論の多くは“尊王攘夷”で、王(天皇)を尊び夷敵を攘う(はらう)という意味で、現状の国態を変えたくない天皇周辺の意を反映した観念的なものでした。
その急先鋒は水戸藩の徳川斉昭で、政治とはいつの時代もそんなもので、直弼は与党の首相、斉昭は野党党首といった所でしょうか。
直弼にはあらゆる情報が集まり、それに基づいて適切な判断を下しますが、列強相手に戦う愚は判り過ぎるほど判っています。
直弼は開国・通商の勅許を天皇に求める事に腐心しますが、情勢に疎い天皇周辺から勅許は下りず、時間切れを迎え直弼は独断で条約に調印する結果となってしまいました。

江戸城桜田門と桜田濠
この“決断”には尊王攘夷派が大反発します。
事態に乗って王政復古を狙う一部の公家や関ケ原のリベンジ組、理想の国家像を唱える学者など、有象無象が加わり活動を強めました。
直弼はこれを収拾し、改めて幕藩政治の元で外国と付き合う道を進める為、強権を以て反乱分子を弾圧します。
『安政の大獄』ですね。
激昂した水戸藩士らは直弼の暗殺を計画し、江戸城桜田門外で登城途中の直弼を襲い暗殺してしまいます。

豪徳寺にある井伊直弼墓所
その後、尊王攘夷の大義を得た長州藩や薩摩藩は限定的に外国人や船を攻撃し実行に移しますが、掛け声とは裏腹に、見事なまでにあっけなく惨敗してしまいます。
幸い一部の反体制勢力の暴走という事で、幕府が賠償し国家間の大事には至りませんでしたが、ここで国力の差を悟った各勢力は“尊王攘夷”のスローガンなどあっさり降ろしてしまい、主導権を狙った倒幕運動へと邁進して行くのです。
長期の鎖国政策は幕府の安定と引き換えに、相対的な国力の低下と極めて変化を好まない国民性を育てており、変化を余儀なくされる大時に至り、国の方向を見出せずに右往左往している構図です。
そんな時代が直弼を見出し、中央政治の場に引き寄せ、適切な判断をさせた上で、不満分子の捌け口まで一手に背負わせた…。
そんな気さえする直弼の44年の生涯でした。
彦根城 完