玄宮園
 黒門口から土橋で内堀を渡り、二ノ丸に付随した庭園“玄宮園”に入って行きます。
 
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本丸へ入る黒門跡
 
 玄宮園とは、金沢の兼六園などと同様の城内の大名庭園ですが、その発端は幕藩体制も落ち着いた4代:直興の頃に、藩主の下屋敷を造営したのが始まりだそうです。
下屋敷は藩主の側室や子弟などの住まいで、入口に“井伊直弼生誕地”の標柱があるのはその為ですね。
 
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 さらに時代は下がって、江戸末期の11代:直中の時、下屋敷の東隣りに直中の隠居屋敷を造営した際、大々的に回遊式庭園を造ったのが、今に残る玄宮園です。
 意外と新しい庭園ですが、広い池の周りに近江八景を模した造りになっている様で、国の名勝にも指定されています。
 
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 隠居屋敷の建物群は“八景亭”として現存し、池の対岸から見る風景は山上の天守を借景にして、なかなか見応えがあります。
 平和な時代の城の景色としては、名城公園の菖蒲池と松越しに見える名古屋城天守が好きなのですが、ここも決して負けてませんね。
 
 
 
 
 
伊家の殿様②  井伊直孝
 井伊直孝は一般には知名度の少ない殿様だと思いますが、軍事に民事に類い稀な才能を発揮した殿様でした。
 
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えっ、直孝? …いえ、ひこニャンです
 
 直孝直政の二男で、兄:直継と同じ天正18年(1590)に駿河で生まれました。
直継は直政の正室:唐梅院の子で、一方直孝の母は唐梅院のお付の侍女という、かなり微妙な関係でした。
 唐梅院は松平康親(松井)の娘で、家康の養女を経て嫁いで来ている事もあり、とびっきり恐妻家だった直政は、直孝の出生をひた隠しにし、秘裡に養育したそうです。
 
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井伊直孝画像
 
 直孝が晴れて井伊家に迎えられるのは、直政が死去した2年後の事で、跡継ぎの直継があまりに*暗愚な事に不安を覚えた重臣達の意志でした。
*粗暴で人望に欠け、妻が実家(鳥居家)に逃げ帰り、家同士の確執に発展しそうだったとも
 
 直孝には取敢えず井伊家分家として上野白井藩1万石が与えられます。
 
 
 
 大坂冬の陣に際して、井伊家も4千の兵を率いて出兵するのですが、家康の指名があり井伊家は総大将:直孝で出陣しす。

 

松平忠直と共に南の八丁目口に布陣した直孝でしたが、当然初陣です。
 
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真田丸跡の宰相山公園 直孝の初陣の相手はなんと真田信繁で、惨敗でした!
 
父:直政譲りの血が騒いだのか、隣りの平野口に出丸(真田丸)を築いて籠る真田信繁の挑発にまんまと乗って正面攻撃を掛けてしまい、一気に五百人を失うという大損害を被ってしまいます。
 しかし夏の陣では八尾・若江の戦で木村重成と長宗我部盛親を破ってリベンジを果たし、余勢を駆って押し寄せた山里曲輪では秀頼を自害に追い込みました。
 
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現在の大阪城“山里曲輪” 豊臣秀頼はここで自害しますが、引導を渡したのも直孝でした
 
 この戦功で直孝には家康より裁定が下り、直継に代わり彦根の井伊家宗家を継ぐ事となり、5万石の加増もありました。
直継にはうち3万石が分け与えられ、新たに安中藩を立藩します
 この時井伊家の家臣で遠江以来の者は直継に付けられ、直孝の元に残った者の多くは武田旧臣だったそうです。
山県昌景の赤備えは、或る意味純血を残せたと言えるでしょうね。
 

 

 その後の直孝は幕府の宿老として将軍:秀忠・家光・家綱を補佐し、石高は最大30万石まで加増され、実ともに譜代の重鎮として70歳まで幕政に君臨しました。
 
 伊達政が“百万石のお墨付き” をかざして加増を要求した際、
確かに神君の御筆ですが、この泰平の世に伊達殿ともあろう御方が、世の乱れの元を造るのは賢明ではありません! 
…と、その場で焼き捨てた話は直孝の行為です。
 
 
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東京世田谷にある井伊家の菩提寺:豪徳寺 奥州吉良氏の居城:世田谷城跡にあります
 
 また直孝が江戸で鷹狩りに出た際、武蔵野の小さな寺の前で手招きする猫を見て、思わず入った途端、突然の豪雨に見舞われ、あやうく難を逃れる事ができました。
 
喜んだ直孝はこの寺に寄進し、井伊家の菩提寺とし、直孝の法名にちなんで豪徳寺としました。
 
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寺ではこの福の縁起から猫を祀り、名物として“招き猫”を一般にまで広め、その逸話が現在の“ひこにゃん”に繋がって行きます。
 
前、娘とひこにゃんのモデルは直政だ、直弼だと議論しましたが、実は直孝なんですw
 
 
つづく