西ノ丸三重櫓
本丸壇上は天守を過ぎると西側は西ノ丸と呼ばれていました。
現在は桜が植えられ、桜の名所となっていますが、高石垣で囲まれた広大な平場は、戦時に将兵を籠らせる空間ではなかったかと思われます。

西ノ丸南側高石垣
二段石垣に大きな横矢が掛かり、きわめて戦闘色の濃い縄張りです
西ノ丸の西の端は山崎郭へと降りて行く虎口となり、ここも三重櫓と多聞で厳重に武装されています。
この三重櫓は長浜城からの移築と伝わり、重文になっています。
一説には、長浜城の天守とも言われており、“秀吉は小谷城から天守を移築し長浜城天守とした…”という話を聴いた事があるので、史実なら凄い事ですが真相やいかに。

西ノ丸から山崎山道を降りて行くと内堀の端に出ます。
左に行くと山崎郭になり、ここも古絵図では琵琶湖側の守りの郭として三重櫓が建っていた場所で、石塁遺構もある様ですが、今日は時間が無いので、黒門橋を渡って玄宮園を目指します。

ここまで来ると喧噪の天守廻りとは違う嘘の様な静寂があり、落着いて城めぐりを楽しめるのですが…。

この花は…何でしょう?
井伊家の殿様① 井伊直政
井伊直政については最初にザッと紹介しましたが、徳川四天王のひとりで、“家康随一の功臣”です。
このブログでは“家康随一の功臣”が何人も出て来ますが(^^;、直政とは一体何をした人なのでしょうか?
武田旧臣を与えられ“小牧・長久手の戦”で活躍したのは述べましたが、家康はなぜ武田旧臣を抱え込み、なぜ直政に与えたのか?

井伊直政画像
徳川四天王の中では智・勇・徳すべてにバランスの良い武将です
家康の武田軍に対する憧れは有名で、中でも山県昌景の戦局を動かす働きには畏敬の念を持っていました。
『ああゆう軍団がおらんと、天下は取れんだで…』
日頃のそんな思いと、武田旧領を得た事で、自然と武田旧臣の確保と流出防止に動いたのでしょう。
家康にも名将は幾人も居て、その当時は本多忠勝と榊原康政が双璧でしたが、どちらも単独では強いのですが、戦局を見て自在に動ける智将タイプではありません。
それにこれまで重ねた戦功へのプライドも高く、変化には強い抵抗が予想されます。
一方、直政に対してはその将才と頭のキレにおおいに将来を期待していたと思われます。
*寵童だったという説もありますし…。
『これからの徳川軍は武田式の軍容に発展させて、直政に指揮させたい…』
その軍制改革のタイミングは意外と早くやって来ます。
永く家康の片腕として徳川を支えて来た石川数正の秀吉への出奔です。
『徳川の軍制が筒抜けになる! 今後は武田方式にするだで、直政、そちに預けとる武田旧臣を中心に組み直すだぞ!』
*あまりにも上手い話なので“石川数正偽装出奔説”も囁かれましたが…。

上野箕輪城
家康の関東移封で、直政には長野業正の名城:箕輪城が与えられました
こうして実質徳川軍のトップになった直政は、その後の戦いでも“強い徳川”を見せ、諸大名に『内府殿こそ…』
と思わせるに十分な働きをするのですが、“関ヶ原の戦”では戦闘以外にも黒幕として大活躍します。
黒田長政と組んで徳川方窓口としての西軍諸将への寝返り工作では、毛利・小早川などの主力をまんまと騙す事に成功し、結果として勝利を呼び込む一番の功労者となりました。
しかし最後の、島津義弘の中央突破での離脱劇には武将としての血に火が着いたのか、阿修羅のごとく追撃し、そのあまりの勢いに馬廻りの側近達も追い付けず、単騎になった所を島津の伏兵に狙撃され、左肩に重傷を負ってしまいました。
この鉄砲傷は癒える事なく、2年後に破傷風を併発し、41歳の若さで佐和山で亡くなります。
・徳川家の今川からの自立と家臣団の基礎を固めた酒井忠次
・近隣の戦国大名との長く厳しい戦いを勝ち抜いた本多忠勝と榊原康政
・そして最後に豊臣の天下を奪い取る道をこじ開けた井伊直政
家康の功臣の四天王はそれぞれ、時代を追ってそんな評価が出来ると思います。
つづく