天秤櫓と太鼓門櫓
  大手山道を登って行くと天秤櫓が見えて来ます。
天秤櫓は羽柴秀吉の長浜城からの移築と伝えられる建物で、門と多聞と隅櫓が一体化し、いかにも初期の秀吉らしい合理的な建物ですね。
 
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  天秤櫓の前では堀切の堀底道となり、対岸に出丸(鐘ノ丸)を従えています。
登城路は一旦鐘ノ丸に上がってから、木橋を渡って天秤櫓に入って行く構造です。
 
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  鐘ノ丸は建物は何も残ってなく、武者溜り状になっていますが、二ノ丸の京橋口から佐和口、つまり敵の侵入口を比高差30mの眼下にしかも至近で見下ろせる、極めて攻撃的な郭となっています。
 
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ここからは佐和山城址がよく見えます。

 橋を渡って天秤櫓から本丸に入って行きます。
天秤櫓は公開されているので、中に入って見ます。
35年前は確か“宝物館”になっていて、赤備えの甲冑が並んでいた記憶があるのですが、入ってみると    『あれ? ドンガラッポだ!!』
 表御殿が復元され、博物館機能はそちらに移った様ですね。後で行ってみよう。
 
 
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梁や柱には槍鉋仕上げの痕がクッキリ残り、嬉しい限りです。

 

天秤櫓の内側は少しスペースを設けていて、少し石段を登って本丸の表門である太鼓門になります。

 

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太鼓門も左折れの枡形門で、櫓門に多聞を連結した構造で、これは佐和山城からの移築と伝わり、もちろん重文です。
  佐和山城からは佐和口の門と多聞櫓も移築されたと言われ、至近でしかも自前の城ですから、他にも数々の建物が移築され、ありとあらゆるモノが築城資材として運ばれたに相違ありません。
*結果として、佐和山城の徹底破壊に見えてしまったかも…。
 

 

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 彦根城には佐和山城の他にも近江の多くの城の遺構が転用されていると聞きます。
その背景について少し触れておきましょう。

 

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まず彦根城築城時(1603年着工)、1600年に関ヶ原の戦が行なわれ、西軍に属した近江の大名は改易となります。
*京極氏だけは東軍に寝返り若狭小浜に加増転封となった

 

 代わって徳川直系の大名が配されますが、井伊家を除き陣屋大名が多かった為、城郭の余剰状態でした。

 

 
 次いで徳川家康は天下人への最終の障害である“豊臣家”をターゲットに豊臣包囲網を築き始めます。
 つまり大坂城を遠巻きにして、多くの巨大な城を天下普請で築城する、日本史上最も“築城繁忙期”だったのです。

 

          畿内と主な城の築城時期
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 こうして資材と技術者の絶対的な不足から、彦根城の『中古品活用』は必然的に決まったモノと思われます。
この結果彦根城は、近江の織豊期の名城を集約保存する形となり、徳川譜代筆頭の城でありながら、クソ面白くもない画一的な白い城とは一線を画す、個性と芸術性、機能美あふれる魅力的な城郭になったのです。
*自論に過ぎませんが…。
 
 
つづく