京橋口
約35年ぶりに訪れた彦根城。
名神高速の彦根ICから真っすぐ西進し、彦根城の堀端に出ると見えて来る橋が京橋です。
橋を通り過ぎた左手に大きい駐車場があり、此処にクルマを停めて起点にします。

GWも過ぎて駐車場も空きが目立ちます。 今日は天守までゆっくり見れるかな?

何か…雰囲気のある通りが整備されています
彦根城は金亀山に築かれた主郭部分を内堀が囲み、中堀との間は二ノ丸が帯曲輪状に広がる縄張りになっています。
家臣団の屋敷や町屋をその外側に配して、総構えの外堀があった様ですが、現在残されているのは中堀以内で、公園化されてその遺構を保っています。

中堀を渡る虎口は3ヶ所あって、南の町人街から入るこの京橋口と、東の武家屋敷街から入る佐和口、そして西の琵琶湖に面した船町口で、それぞれ違う機能を持った構成になっています。
京橋口から入って行きます。
ここは左折れの枡形門で、建物は残っていませんが、石垣上には二重の渡り櫓が建っていました。
主郭の大手門に一番近い門だけに、あまり類のない随分と立派な門構えだった様ですね。

門内に入って目を惹くのは、堀端の多門櫓へ登る石段(雁木)で、より多くの兵士の昇降を捌ける様に建物幅いっぱいの階段になっています。
門前にはすぐに家老:西郷家の屋敷の長屋門があって、京橋口の警護一切を任されていた事を覗わせます。
西郷家は薩摩の西郷どんの一族ではなく、三河国額田郡南部に勢力を張った“三河西郷氏”で、古くから松平氏に与力しており、天正年間の武田氏との戦いでは奮戦し、当主の義勝が戦死しています。
その後、義勝の未亡人は家康の側室に上がり(西郷局)、徳川秀忠と松平忠吉を産んでいます。

そうした功績もあって重用された西郷一族は、徳川家、松平家、上級譜代の重臣として多くその名を認められます。
特に、会津松平家の家老:西郷頼母は有名ですよね。
大手門
真っすぐ内堀の堀端に出て、左に折れて大手門に向かいます。
右手に堀越しに主郭(鐘ノ丸の基底部)を見ながら進みますが、ここの石垣は丸く二重に積まれていて(腰巻・鉢巻石垣)、これもまた珍しい構造ですね。 さすが穴太衆の本場です。

木製の大手門橋で内堀を渡って主郭に入って行きます。
ここもまた左折れの枡形門で、橋の向こうには櫓群の石垣が立ちはだかります。

ここは平地が狭く、山肌に折り重なる様に石垣が迫り、迫力があります。

京橋口門と同様に左側に横矢が掛けられ、橋に並行して長~い多聞の櫓台があります。
この門からの侵攻はとても無理ですね…。
まだ門を二つ入ったばかりですが、彦根城という城は御殿ではなく、明らかに実戦を前提に、しかも最新の手法で縄張りされた城である事がよく判ります。
門の枡形を過ぎると馬出しの広場になり、その一番奥に関所があります。
“関所”とは、木戸銭の徴収所の事で、天守、玄宮園、博物館の通し券で\1,000、高いか安いかは…まだ判りません。
関所を無事越えると、登城路は右に折り返して本丸へ向けての登り坂(大手山道)になります。

この景色、遠い昔のデジャヴを覚え、直感的に子供の頃に遠足で訪れた津山城…が浮かびました。
でも、35年前の彦根城の記憶なのかも知れませんね。
つづく