日本百名城 №50 彦根城 登城日2016.5.8

城郭構造 連郭式平山城
天守構造 複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築)
築城主 井伊直継
築城年 1622年(元和8年)
城主 井伊氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 現存天守、 櫓、門、塀、馬屋、石垣、土塁、堀
指定文化財 国宝(天守等2棟)
重用文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
所在地 滋賀県彦根市金亀町1-1
天守構造 複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築)
築城主 井伊直継
築城年 1622年(元和8年)
城主 井伊氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 現存天守、 櫓、門、塀、馬屋、石垣、土塁、堀
指定文化財 国宝(天守等2棟)
重用文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
所在地 滋賀県彦根市金亀町1-1
春の農作業も一段落したので久々に城めぐりです。
今回は“ひこにゃん”人気で長く近寄る事ができなかった“国宝 彦根城”に行って来ました。
彦根城は江戸初期に徳川譜代筆頭の井伊氏が築城し、そのまま明治維新まで守り通した、ワンオーナーの城ですが、まずはその井伊氏の系譜から入って行きたいと思います。
井伊氏とは
井伊氏は藤原北家系の支族と言われ、平安時代から遠江井伊谷(現:浜松市北区引佐町)を拠点に栄えてきた豪族です。
井伊氏は藤原北家系の支族と言われ、平安時代から遠江井伊谷(現:浜松市北区引佐町)を拠点に栄えてきた豪族です。
最盛期には天竜川以西の西遠江を一族で支配していました。
室町時代の南北朝の争乱で南朝に付いた井伊氏は、宗良親王を奉じて駿河の今川氏と戦い、敗れて一旦没落します。

応仁の乱を契機とする、今川氏と斯波氏の遠江守護職をめぐっての争いの中では斯波氏に属して戦い、敗れた後には今川氏の支配下に組み込まれました。
しかし、今川氏の三河、尾張への侵攻にあたって、常に先鋒で酷使される井伊氏では、直宗など若い当主の陣没が相次ぎ、堪らず武田氏への接近を図った直満も今川義元によって暗殺されて、勢力を減退させてしまいます。
しかし、今川氏の三河、尾張への侵攻にあたって、常に先鋒で酷使される井伊氏では、直宗など若い当主の陣没が相次ぎ、堪らず武田氏への接近を図った直満も今川義元によって暗殺されて、勢力を減退させてしまいます。
後を継いだ若年の直盛も今川義元に近侍しての尾張侵攻の途上、桶狭間で織田信長の奇襲を受け、義元ともども敢えなく討死にしてしまいます。
直盛には男子がなく、後を継いだのは従弟である直親でしたが、直親もまた今川氏真によって暗殺されてしまいます。
直盛には男子がなく、後を継いだのは従弟である直親でしたが、直親もまた今川氏真によって暗殺されてしまいます。
直親には2歳になる嫡子:虎松が居ましたが、身の危険を感じた母親は虎松を連れて他家へ再嫁する事で、難を逃れます。
相次いで当主を亡くした井伊家を継いだのは直盛の子の直虎でした。
直盛には嫡子が無かった…と先に述べましたが、この直虎とは直盛の長女が男名を名乗って跡継ぎとなったもので、嫡流の血脈が絶えた井伊氏にとって残された最後の選択肢でした。
*『井伊直虎』は来年の大河ドラマになります
相次いで当主を亡くした井伊家を継いだのは直盛の子の直虎でした。
直盛には嫡子が無かった…と先に述べましたが、この直虎とは直盛の長女が男名を名乗って跡継ぎとなったもので、嫡流の血脈が絶えた井伊氏にとって残された最後の選択肢でした。
*『井伊直虎』は来年の大河ドラマになります

井伊直政の登場
女城主:直虎はよく一族を切り盛りして行きますが、直虎の元でも今川の圧政には苦しみ、遂には三河で勢力を拡大する徳川家康に庇護を求め、家康の躍進を梃子に今川支配からの脱却を図ります。
女城主:直虎はよく一族を切り盛りして行きますが、直虎の元でも今川の圧政には苦しみ、遂には三河で勢力を拡大する徳川家康に庇護を求め、家康の躍進を梃子に今川支配からの脱却を図ります。
その間に直虎は、母とともに三河に逃れていた先代当主:直親の遺児:虎松を引取ると、万千代と名を改めて跡継ぎとして養育します。
15歳になった万千代は家康の元に出仕して小姓となり、翌年には井伊勢を率いて東遠江での武田勝頼との戦いで初陣しました。
15歳になった万千代は家康の元に出仕して小姓となり、翌年には井伊勢を率いて東遠江での武田勝頼との戦いで初陣しました。

井伊氏の拠点:井伊谷城址遠景
武田信玄の西上作戦の折、三河から迂回して来た山県昌景隊に襲われますが、直虎は浜松城に退避する事で難を逃れました。
一旦は昌景に占拠されるも、武田軍が野田城攻めに掛かると奪還しています。
天正十年、22歳になった万千代は元服して井伊直政を名乗ります。
この年は織田・徳川連合軍の甲斐侵攻の年でもあり、この戦いで無類の戦功を挙げた直政には、降伏した武田軍の将兵が多く与えられて、“井伊の赤備え”を編成する契機となりました。
この年は織田・徳川連合軍の甲斐侵攻の年でもあり、この戦いで無類の戦功を挙げた直政には、降伏した武田軍の将兵が多く与えられて、“井伊の赤備え”を編成する契機となりました。
小牧長久手の戦いでは“赤備え”で戦場を疾駆し、この“井伊の赤鬼”の活躍は豊臣方諸将の恐怖の的となったそうで、この後に直政は徳川四天王の一角を占める事となります。
さらに小田原攻めの頃になると徳川家での直政の位置付けは譜代筆頭となりました。
直政のこの破格の出世は、この時28歳で将としての才に優れた直政に対し、他の四天王が軒並み老境にさしかかる年齢…というのもありますが、家康の正室:築山殿の母が実は井伊直平の娘にあたり、家康にとっては直政は親族のひとりであった…という説が有力な様ですね。

武田旧臣を多く抱えた井伊家の甲冑は、武田最強の山県昌景隊になぞらえて赤備えで統一されました。
家康が関東に移封になると、直政には譜代最大の上野箕輪12万石(一説には10万石)が与えられます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍の軍監として戦いに臨み、見事に東軍を勝利に導きます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍の軍監として戦いに臨み、見事に東軍を勝利に導きます。
直政にはこの戦功で石田三成の旧領である近江佐和山18万石が与えられました。
東西の交通の要衝で、京をも睨む佐和山は、豊臣秀吉が最も信頼する三成を置いた様に、重要な地勢にあり、家康に格別の役割を期待された故の事なのですが、直政は三成の城である佐和山城が気に入らず、新城の築城を望んでいました。

彦根城から臨む佐和山城址
“三成に 過ぎたるモノが二つあり 島の左近と佐和山の城” と謳われた名城でしたが、直政の死後に彦根築城と併せて、徹底的に破壊されました。
しかしこの2年後、直政は関ヶ原での戦傷が元でこの世を去ります。
41歳の働き盛りでの死でした。
直政の遺志は翌年には実行に移され、佐和山の1㌔西の湖岸にある金亀山に新城の築城が始まります。
これが現在まで残る国宝彦根城の始まりでした。
41歳の働き盛りでの死でした。
直政の遺志は翌年には実行に移され、佐和山の1㌔西の湖岸にある金亀山に新城の築城が始まります。
これが現在まで残る国宝彦根城の始まりでした。
簡単に端折りましたが、彦根城のイントロダクションです。
つづく