東海の城探訪 岐阜県 高須城 登城日2016.3.12

城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 氏家重国
築城年 暦応元年(1338)
廃城年 明治6年(1873)
遺構 土塁、堀切
指定文化財 なし
所在地 岐阜県海津市高須
天守構造 なし
築城主 氏家重国
築城年 暦応元年(1338)
廃城年 明治6年(1873)
遺構 土塁、堀切
指定文化財 なし
所在地 岐阜県海津市高須
ある方のブログで高須藩の陣屋跡(城)が紹介されていて、意外と雰囲気が残っているのを知りました。
岐阜に用事があった日の帰り、さっそく寄ってみました。
高須城は、暦応元年に氏家重国によって築かれました。
重国は越中の住人でしたが、1338年越前藤島の戦いで新田義貞の首級を上げる功があって、美濃石津郡で地頭職を賜り、高須郷に居館を構えたのが高須城の始まりです。
重国は越中の住人でしたが、1338年越前藤島の戦いで新田義貞の首級を上げる功があって、美濃石津郡で地頭職を賜り、高須郷に居館を構えたのが高須城の始まりです。

氏家氏はその後楽田城に移り、変わって大橋氏が高須城に入りますが、清洲の織田氏の勢力圏になると、織田配下の平野、恒川、鷲巣、秋山、林、稲葉などの属将がめまぐるしく変わりながら支配しました。
その後の豊臣政権下では高木盛兼が1万石で城主でしたが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易となります。

旧城域に建つ歴史資料館 随分と立派な城風の建物です
徳川政権下では東軍で高須城を攻めた徳永寿昌が5万石余りで入封し、高須藩を立藩します。
徳永氏は僅かの期間で城と城下町を整備しますが、2代昌重の時の大阪城改築の賦役に不手際があり、寛永5年(1628年)改易となり、廃城となりました。
徳永氏は僅かの期間で城と城下町を整備しますが、2代昌重の時の大阪城改築の賦役に不手際があり、寛永5年(1628年)改易となり、廃城となりました。

江戸期の城(陣屋)と城下図
寛永17年(1640年)新たに下総関宿藩より小笠原貞信が2万2千石で移封して来ますが、大河川に囲まれて水害の多い高須領は年貢の収納もままならない為、自ら願い出て、元禄4年(1691年)越前勝山藩に転封となり、再び廃城となりました。
館内に復元されてる“堀田”
刈った稲の運搬は船でないと行えないため、こんな形の水田になりました。
まさに水との闘いですね。
その後は10年あまり天領、代官領となっていましたが、元禄13年(1700年)信濃国内で3万石の所領を持っていた尾張藩2代藩主徳川光友の次男:松平義行が所領交換で入封します。
義行は高須城跡地に陣屋を構え“高須松平家”が明治維新まで170年も連綿と続いて行くのですが、この家は尾張徳川家の連枝であり、格式も高く、宗家に嗣子が絶えて宗家を相続した藩主は4名にものぼります。
義行は高須城跡地に陣屋を構え“高須松平家”が明治維新まで170年も連綿と続いて行くのですが、この家は尾張徳川家の連枝であり、格式も高く、宗家に嗣子が絶えて宗家を相続した藩主は4名にものぼります。

戊辰を駆け抜けた 高須四兄弟
高須といえば、やはり幕末の4兄弟ですね。
資料館にもこの写真の大きなパネルが飾られていました。

明治になって十余年が過ぎたある日、長兄の慶勝邸に集まって撮ったものだそうですが、血筋の良さそうなダンディな兄弟ですね。
勤王のもとに官軍となった兄二人と、あくまでも幕府に殉じようとした弟二人…。
同じ高須の家に生まれながら、敵味方に分かれて激動の波に揉まれた前半生を果たして克復できたのでしょうか?
では、四兄弟のそれぞれの生き様を見て行きましょう。

左:徳川慶勝
高須藩主:松平義建の次男でしたが、長男が夭折したため嫡子でした。
嘉永2年(1849年)25歳で宗家:尾張藩徳川家の14代藩主に就任します。
大老:井伊直弼を詰問すべく水戸藩主:徳川斉昭と強硬登城したのはこの人ですね。
その結果“安政の大獄”で隠居謹慎となり、政治生命を絶たれてしまいます。
しかし、“桜田門外の変”後はまた表舞台に登場し、尾張藩の実権を握って活躍します。
第一次長州征伐では征討軍総督に選ばれますが、長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取っています。
また第二次長州征伐には反対の立場を貫き、尾張藩兵は出さなかった為、幕府軍は散々な負け戦となりました。
維新政府では議定を務めましたが、明治16年(1883年)に死去、享年60でした。
右:徳川 茂徳
松平義建の五男で、兄:慶勝が尾張藩主となったため、高須藩主になりました。
しかし、慶勝は隠居させられた為すぐに尾張藩徳川家15代藩主を継ぎます。
(高須藩主は代わって長男の義端が継承)
兄:慶勝が表舞台に戻ると、次第に居心地が悪くなり、文久3年(1863)に隠居し、兄の子:義宜に藩主の座を譲りました。
隠居後は将軍になった一橋慶喜に代わって一橋家当主を継承し、茂栄に改名。
明治維新では、徳川一門の総代的な役割を担って新政府との交渉にあたり、東征大総督:有栖川宮熾仁親王に将軍慶喜の寛大な処分を申し入れ了承されています。
兄:慶勝に翻弄された生涯ですが、明治17年(1884)54歳で没。

左:松平容保
松平義建の六男で、10歳で叔父の会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、16歳で家督を継ぎ会津藩第9代藩主となりました。
文久年(1862)京都守護職に就任すると藩兵を率いて上洛し、京の治安の維持に努め、孝明天皇の信頼は殊の外篤かった様です。
鳥羽・伏見の戦いに敗北すると、慶喜に従って幕府軍艦で江戸へ下ります。
蟄居謹慎する慶喜に倣って会津で謹慎しますが、藩内は抗戦の機運が満ちており、容保も腹を決め『会津戦争』へと突入します。
戦後は鳥取藩の預かりで謹慎しますが、明治5年に赦されて、その後は日光東照宮の宮司などをして、明治26年に59歳で亡くなりました。
右:松平定敬
松平義建の八男で、安政6年(1859)桑名藩主:松平定猷の死去を受け、14歳で娘:初姫の婿養子に迎えられ、桑名松平家(久松)藩主となります。
元治元年(1864)に京都所司代に任命されると、兄:容保と一橋慶喜とともに幕末の京都で活躍します。
鳥羽・伏見の戦いの敗戦で慶喜について江戸に戻り謹慎しますが、政府軍の侵攻前に藩領の越後柏崎に移り、会津→仙台→函館と戊辰戦争を転戦します。
(定敬には新選組の土方歳三も同行しています)
函館では終戦前にアメリカ船で上海に逃れますが、資金不足から横浜に戻り降伏しました。
明治5年に赦されると、渡米も経験し、また西南戦争では旧桑名藩兵を率いて出陣しています。
晩年は兄:松平容保の後を継承して日光東照宮宮司などを務め、明治41年(1908)に61歳で死去しました。
幕末に活躍した兄弟では水戸の徳川斉昭の息子達も居ますが、この美濃高須の片田舎の小藩で生まれた兄弟が皆英才で、大藩の藩主となって時代の主人公となって活躍しています。
心情的にこちらの方が惹かれますね。
