少し前のテレビで、はな子婆ちゃんが元気に69歳を迎える事を伝えるニュースを目にしました。
もう10年以上逢っていないので、正直『まだ生きてたんだ…』という感想でしたが、最近イライラがつのっていた事もあり、あの優しい眼差しにまた逢いたくなって、東京で時間ができた先日、逢いに行って来ました。


井の頭池は神田上水の水源で、徳川家光により整備されました
はな子婆ちゃんは吉祥寺に住んでいます。
新宿から中央線で向かいますが、天気は快晴で、朝の冷え込みも昼前にはポカポカの陽ざしに変わっていました。
こんな日には、南国生まれの婆ちゃんは、外でのんびり日向ぼっこを楽しんでる筈です。
新宿から中央線で向かいますが、天気は快晴で、朝の冷え込みも昼前にはポカポカの陽ざしに変わっていました。
こんな日には、南国生まれの婆ちゃんは、外でのんびり日向ぼっこを楽しんでる筈です。
吉祥寺駅を南口に出て、すぐに井の頭公園に入って婆ちゃんの家に向かいます。
入園料\400を払い、ゲートを潜って、まっすぐ行くと… やはり居ました♪
入園料\400を払い、ゲートを潜って、まっすぐ行くと… やはり居ました♪

はな子婆ちゃんは終戦後間もない1946年の春にタイで生まれた雌のアジア象です。
2歳の時にタイ国から日本の上野動物園に寄贈されましたが、愛らしい子象だったためか大人気になり、移動動物園で日本全国を廻ったそうです。
2歳の時にタイ国から日本の上野動物園に寄贈されましたが、愛らしい子象だったためか大人気になり、移動動物園で日本全国を廻ったそうです。
タイ国での名前は『カチャ』でしたが、日本風の名前が公募され、『はな子』と名付けられました。
上野動物園には戦前にも『花子』という名の象が居り、人気者でしたが、戦中に食料不足から餌やりが滞って、餓死させてしまった事から、そのリベンジの気持ちも込められていたのでしょうね。
上野動物園には戦前にも『花子』という名の象が居り、人気者でしたが、戦中に食料不足から餌やりが滞って、餓死させてしまった事から、そのリベンジの気持ちも込められていたのでしょうね。

1954年3月、7歳の成象になった“はな子”は武蔵野市、三鷹市の要請で井の頭公園に移りました。
しかし、性格の温厚なアジア象でも娘時代の“はな子”はヤンキー気質が有った様で、1956年には深夜にゾウ舎に侵入した酔っ払い客を死なせてしまう事故が起こります。
さらに1960年には担当の飼育員を踏み殺す事故が重なり、園では“はな子”を“危険な象”として前足を鎖で繋ぎ、舎内に閉じ込めてしまいます。
“はな子”はそのストレスと人間不信から、すっかり痩せ衰えてしまったそうです。
しかし、性格の温厚なアジア象でも娘時代の“はな子”はヤンキー気質が有った様で、1956年には深夜にゾウ舎に侵入した酔っ払い客を死なせてしまう事故が起こります。
さらに1960年には担当の飼育員を踏み殺す事故が重なり、園では“はな子”を“危険な象”として前足を鎖で繋ぎ、舎内に閉じ込めてしまいます。
“はな子”はそのストレスと人間不信から、すっかり痩せ衰えてしまったそうです。

そんな“はな子”を救ったのが新たに飼育員になった山川清蔵さんで、すぐに鎖を解いて運動場に連れ出し、少しずつ辛抱強く気持ちを解きほぐして行ったそうです。
以来、山川さんの退職までの30年、ともに楽しく過ごした“はな子”は人間への信頼を取戻し、歳を重ねるにつれ温厚で優しい象になって行った様です。

十数年前にそのドキュメンタリー番組を観て、日々の辛苦を癒してもらう『はな子ファン』の存在を知って初めて見に行ったのですが、その時すでに50代後半の『はな子婆ちゃん』は体中しわくちゃで、動きも鈍く、石像の様に立って今日と同じ様に日向ぼっこをしていました。
ただ、真っ直ぐにこちらを見つめる眼差しは全てを包み込む様に深く、優しい不思議な光を放っていたのを良く覚えています。

今回、久しぶりに逢えた“はな子婆ちゃん”、さすがに衰えたのは一目瞭然で、体の皺も深くなり、肉付きも悪く、ほとんど動きもありません。
象の寿命は60年くらいだそうですから、仕方の無い事ですが、その眼差しは相変わらず前回にも増して慈愛に満ちた優しいものでした。
象の寿命は60年くらいだそうですから、仕方の無い事ですが、その眼差しは相変わらず前回にも増して慈愛に満ちた優しいものでした。


今回は覚えてくれてたのか、耳を振って応えてくれた様な気がしました。(気のせいですけどね…)
しばらく眼で会話して、『もう逢う事はないんだろうなぁ…』としみじみ思いながらも仕事に向かいましたが、少し穏やかな気持ちになれた自分を感じていました。
皆さんもまだでしたら、一度『はな子婆ちゃん』に逢って来る事をお奨めします。
もうそんなに時間はありません。
