尾張徳川家 付家老の城
 
 関ヶ原の戦いの後、尾張の諸大名(主に豊臣恩顧)は転封または改易となってしまいます。
後には関ケ原で舅の井伊直政と共に大活躍した徳川家康の四男:松平忠吉が52万石で入り、居城を清須城とします。
 それまで武蔵忍城10万石で若干20歳の忠吉にはこの時、多くの家臣が付加されますが、直臣の小笠原吉次が家康の命により新たに*付家老となり、犬山城が与えられました。
 しかし忠吉は関ヶ原の折の戦傷が癒えずに28歳で死去し、嗣子も無かった事から家は断絶してしまいます。
 
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旧来の望楼型天守は気品高く美しく、館山城など昭和の模擬天守のモデルになっています
 
 新たに尾張領を受け継いだのは家康の九男:義直で、僅か8歳であった事と“豊臣秀頼”に備えた名古屋城築城の事業があった事から、清須城主ではあったものの、実際の赴任先は完成後の名古屋城となりました。
 
 義直には傅役の*平岩親吉という大物が付随して赴任し、付家老としては破格の12万3千石で犬山城に入ります。
 犬山城と城下の整備の多くはこの平岩親吉の時に行われたとも想像するのですが、赴任後間もない慶長16年(1612)、70歳で死去してしまいます。
 
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ちゃんと和釘を使用 やはり木造のホンモノは良いものです
 
 
 嗣子の居ない平岩家は断絶となり、付家老と犬山城主の座は成瀬正成が3万5千石で受け継ぎます。
 成瀬家は代々徳川譜代の家臣で、成瀬正成は親吉ほどのビッグネームでは無いものの、当時は家康の側近を務める新進気鋭の人材であり、“親吉に代わり得る人材を”という家康の並々ならぬ決意が伺える人事です。
 
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望楼からの眺め 橋の左の岩山は鵜沼城址です
 
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最上階の火灯窓はダミーでした
 
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枇杷かな? と思ったら、桃の飾り瓦  犬山にも桃太郎伝説があります
 
 また、犬山城天守に3,4階の望楼を増築したのは、この成瀬正成だと言われています。
 これ以降、犬山城主は成瀬家が一度も外の血を入れる事なく直系9代で受け継ぎ、明治維新を迎えます。
 
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成瀬時代の城下図
付家老にはいざとなったら戦ってでも主君を諌めねばならぬ重い役割がありました。
防備は疎かにはできません。
 
 明治4年に一旦は廃城となって国有地となり、天守を除いた建物はすべて破却された犬山城ですが、1891年(明治24年)の濃尾地震で大きな被害を受けた為、個人での修復を条件に、再び成瀬家に譲渡されました。
 
 以後、天守のある城としては唯一の個人所有だった犬山城ですが、近年に成瀬家の意向で『財団法人:犬山城白帝文庫』が設立され、財団の所有に変わりました。
 城址や城下を歩いて見ると、やはり個人所有の限界を感じる部分が残っていますね。
 
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城下の様子1
 
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城下の様子2
 
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城下の様子3
 
 
 
最後に付録をふたつ
 
*付家老とは
 関ヶ原の戦い後、西軍の大名の広大な領地を得た徳川家康は、これを主に自らの子息に与える事で徳川支配体制を盤石にして行きます。
 しかし、子息はその多くがまだ幼少で自前の家臣団など持たない身だった事から、幕府は新規に家臣団の編成を迫られます。
 
 藩の主要な家臣として旗本を充てるのですが、御三家などの大藩には、核となる大名クラスのそれなりの人材が必要で、小藩の藩主や高給旗本をそれに充てようとしますが、家康の直臣から家臣の家臣、つまり陪臣になってしまう事から、誰もが躊躇います。
 
 そこで、将軍から直接任命され、且つ俸禄も将軍から貰う形での『付家老』という制度が考案されました。
そして+αのメリットとして、大名クラスの石高待遇と小大名では無理な城持ちが許されたのです。
 
 主な付家老としては以下の通りで、代々世襲で務めました。
 
尾張名古屋藩 徳川家   成瀬氏  (尾張犬山 3万5千石)
                        竹腰氏  (美濃今尾 3万8千石)
紀伊和歌山藩 徳川家   安藤氏 (紀伊田辺 3万8千石)
                        水野氏 (紀伊新宮 3万5千石)
常陸水戸藩 徳川家    中山氏  (常陸松岡 2万5千石)
駿河府中藩 徳川家    朝倉氏  (遠江掛川 2万6千石)
*忠長一代限り            鳥居氏  (甲斐谷村 3万5千石)
越前福井藩 松平家    本多氏  (越前武生 3万5千石)
*秀康・忠直の二代          本多氏   (越前丸岡 4万石)
 
 
 
*家康の隠れた名臣 平岩親吉
  平岩親吉と聞いても、歴史好きでさえなんとなく聴いたことのある名前だなぁ…くらいな知名度でしょう。
 
親吉は家康と同年齢で、早くから小姓として近侍し、今川の人質生活にも同行したためか、家康の信頼は特に篤かった様です。
 
 親吉の知名度と人柄を伝える逸話があります。
豊臣秀吉が伏見城を築城した際、秀吉はこれはと思う家康の重臣4人に極秘に祝儀の黄金百枚を贈ります。
井伊直政と本多忠勝はこれを黙って受取り、榊原康政は迷った末に家康に相談して、受領を奨められ受取ります。
最後の平岩親吉はといえば、『太閤に貰う謂れナシ!』とその場で突き返したそうです。
 
 平岩親吉の功績はといえば、戦働きの他、嫡子:信康の傅役、甲斐国の経営など数知れませんでしたが、親吉には老境になっても子が出来ず、嗣子がありませんでした。
 このままでは親吉の家が無くなるのを惜しんだ家康は、七男の仙千代を養子に与えますが、親吉は運悪く仙千代を幼くして死なせてしまいます。
 
 その事もあって、その後は九男の義直の傅役と付家老の仕事に心血を注いだ老年期でしたが、事業半ばの齢70で遂に死んでしまいます。
 
 それでも諦めきれない家康は、親吉の隠し子との噂があった子を探し出して、なんとか平岩家を残そうとしますが、その母親が『平岩様の子ではありません!』と頑なに固辞し続けたため、諦めざるを得ませんでした。
 
 私欲がなく、家も絶え名声も他の重臣ほどには残らなかった親吉ですが、家康の信頼の大きさだけで、満ち足りた人生だったのだろうと思います。
 
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平岩親吉画像  今年の大河ドラマ『真田丸』では東武志さんが演じますが、出演者紹介の序列から、出番はかなり多いと思われます。 楽しみですね。
*写真は東武志さんHPより借用しました。