織豊期を駆け抜けた城主達

天守内で見つけた額 城主の変遷が判ります
織田信長の治世下でまず犬山城を与えられたのは池田信輝(のちの恒興)でした。
恒興は幼少から小姓として織田家に仕え、武将として成長して行きますが、元亀元年(1570)の姉川の戦いでの活躍が認められ、*知行1万貫への加増で犬山城主となりました。
恒興は以後も比叡山、長島一向一揆、長篠の戦いなどに先陣の将として出陣し、天正8年(1580)には信長に叛いた荒木村重を破った功により、村重の旧領の摂津茨木へと移封します。
恒興は幼少から小姓として織田家に仕え、武将として成長して行きますが、元亀元年(1570)の姉川の戦いでの活躍が認められ、*知行1万貫への加増で犬山城主となりました。
恒興は以後も比叡山、長島一向一揆、長篠の戦いなどに先陣の将として出陣し、天正8年(1580)には信長に叛いた荒木村重を破った功により、村重の旧領の摂津茨木へと移封します。

入り口の城址碑 本丸に至る各郭にはたくさんの神社が建っています
次いで犬山城に入ったのは信長の五男:織田勝長(信房)でした。
勝長は信長の叔母の嫁ぎ先で、子の無かった美濃国岩村の国人:遠山景任の元に養子に行っていました。
景任はすでに病死していた為、信長の後援を得たい重臣の希望で跡継ぎとして入りましたが、幼少のため未亡人の“おつやの方”が女城主として差配していました。
勝長は信長の叔母の嫁ぎ先で、子の無かった美濃国岩村の国人:遠山景任の元に養子に行っていました。
景任はすでに病死していた為、信長の後援を得たい重臣の希望で跡継ぎとして入りましたが、幼少のため未亡人の“おつやの方”が女城主として差配していました。
この岩村城に武田信玄の命を受けた秋山信友が攻め寄せ、和睦開城して、勝長は人質として甲府の躑躅ヶ崎に送られ、勝頼の元で元服します。
しかし、その後の長篠の戦いを経て、信長との関係修復を図りたい勝頼の意思で返還されたのです。
成長した実子:勝長を迎えた信長は信房と改名させ、犬山城を与えて遇します。
出陣の時には傍近くに置いて大切にしましたが、かえってそれが災いし、京の二条城に滞在中に起こった『本能寺の変』で戦死してしまいます。
出陣の時には傍近くに置いて大切にしましたが、かえってそれが災いし、京の二条城に滞在中に起こった『本能寺の変』で戦死してしまいます。

登城路は石段と石畳のハーフ&ハーフですが、石段がオリジナルでしょうね
『清須会議』の結果、尾張は織田信雄の領地となり、信雄は清須城に入り、犬山城は家臣の中川定成に与えられます。
2年後の天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で『小牧・長久手の戦』が起こり、信雄の命で中川定成が伊勢峯城に出陣した留守中、犬山城は秀吉に与力した元城主:池田恒興によって奪取されてしまいます。
急を聞いた中川定成は犬山へと兵を戻しますが、途中の長良川畔で秀吉方と戦闘になり、戦死しました。
この後、尾張長久手で徳川軍と戦かった池田恒興も、嫡子:元助と共に戦死してしまいます。
戦いはその後膠着し、信雄が秀吉と和睦したため、家康も三河に引揚げ、秀吉は犬山城に監視のため加藤光泰(泰景)を入れると、大坂に引揚げました。
戦いはその後膠着し、信雄が秀吉と和睦したため、家康も三河に引揚げ、秀吉は犬山城に監視のため加藤光泰(泰景)を入れると、大坂に引揚げました。
まもなく、和睦の条件で犬山城は信雄に返還されたので、加藤光泰は大垣城主(4万石)となって移ります。

水運が良く小牧山方面を見渡せる犬山城は、秀吉の陣所となりました
信雄は新たに犬山城代として武田清利を入れ、3年後には土方雄良に替えました。
そして更に3年後の天正18年(1590)、信雄が遠江・駿河の旧徳川領への移封を断って改易になると、尾張は近江八幡城主:豊臣秀次に加増され、犬山城主には父:三好吉房(秀吉の姉の夫)が入ります。
秀次が関白になり、京に常駐すると尾張領の経営一切を吉房が見る事になりますが、大名の器には程遠かった様で、すぐに家臣の三輪吉高(城代)に替えられました。

本丸には大手門が復元されていますが、係の人が「コンクリート製です…」と申し訳なさそうでした。 早くから観光地化されてますからね。
文禄4年(1595)、秀吉により秀次が失脚させられると、犬山城には石川貞清が1万2千石で入ります。
貞清は木曽の秀吉直轄領(桧林)の代官も兼ねており、肥前名古屋城築城の用材搬出で活躍しますが、関ヶ原の戦では宇喜多秀家(備前岡山城主)の軍に合流し、西軍に付いた為改易されました。
貞清は木曽の秀吉直轄領(桧林)の代官も兼ねており、肥前名古屋城築城の用材搬出で活躍しますが、関ヶ原の戦では宇喜多秀家(備前岡山城主)の軍に合流し、西軍に付いた為改易されました。

本丸広場と国宝天守 石川貞清は12万石まで加増されてるので、城の改修にも資金を注ぎ込んでる事でしょうね
その3 尾張藩付家老の城 につづく
知行1万貫とは?
大名の知行(領地)の大きさを表すには石高を用いるのが馴染み深いのですが、銭が造られ貨幣経済が普及した室町~織豊期には銭に換算した表し方をする事がありました。
銭は1枚が1文で、大きな取引には1文銭を千枚束ねたものを使いましたが、これが1貫で、1貫の銭で約2石の米と交換できました。
ですから知行1万貫は2万石相当の領地という事になります。
大名の知行(領地)の大きさを表すには石高を用いるのが馴染み深いのですが、銭が造られ貨幣経済が普及した室町~織豊期には銭に換算した表し方をする事がありました。
銭は1枚が1文で、大きな取引には1文銭を千枚束ねたものを使いましたが、これが1貫で、1貫の銭で約2石の米と交換できました。
ですから知行1万貫は2万石相当の領地という事になります。


1文銅貨の寛永通宝と、これを千枚束ねた“銭貫”
また、銭の重さは質量の単位でもありました。
1文を匁と書き換え、千匁(3.75kg)を一貫として重さの単位にも使いました。
こちらは、超肥満な人を『百貫デブ』などと言った様に、割と最近まで使われていましたね。
1文を匁と書き換え、千匁(3.75kg)を一貫として重さの単位にも使いました。
こちらは、超肥満な人を『百貫デブ』などと言った様に、割と最近まで使われていましたね。