日本百名城 №43  愛知県 犬山城  登城日2016.1.23
 
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 城郭構造     平山城
 天守構造     複合式望楼型 3層4階地下2階(1620年改)
 築城主       織田広近
 築城年           1469年(文明元年)
 主な改修者     織田信康
 主な城主        織田氏、石川氏、平岩氏、成瀬氏ほか
 廃城年       1871年(明治4年)
 遺構               現存天守、石垣、土塁
 指定文化財     国宝(天守)
 再建造物        櫓、門(模擬 )
 
 
 東海地方の百名城で唯一、掲載できてなかった犬山城にブログ用の写真撮りを兼ねて行ってきました。
 天守現存12城の中でもある意味日本最古の国宝天守を持つ犬山城はその歴史も古く、何から書いて良いやら…と迷うほど沢山の歴史ネタを秘めています。
 
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国宝:犬山城天守 天守台上2層目の大屋根までは1537年 織田信康により建造されたそうですから、*最古の現存天守です
 
 有名な城だけに、Wikipedia的な紹介をしても御存知の方も多いので、工夫しながら紹介させて貰います。
 
 
築城主 織田広近と尾張織田家
 犬山城の始まりは1469年(文明元年)と古く、織田広近が尾張国北端の木曽川河畔の小山に砦を築いたのが始まりと言われています。
それを約70年後の1537年(天文6年) 織田信康が城として改修し、ほぼ現在の形を造りました。
 
では、この織田の氏族とは? 有名な織田信長との関係はどうなのか?
この辺から入って行きます。
 
 織田氏の発祥地は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)で、室町時代に越前国の守護だった斯波氏に仕え、守護代を務める家でした。
 後に斯波氏が尾張国の守護を兼務する様になると、織田氏の一部も尾張に移住し、守護代を務めます。
 
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 戦国の動乱期になると、どの国でも守護の支配が形骸化して、守護代が台頭する“下剋上”が起こります。
次いで台頭した守護代同士が覇権を争う混迷の時代へとなって行きます。
 
 越前では甲斐氏に次いで序列二位だった織田氏ですが、新興の朝倉氏が台頭し、織田氏は没落してしまいます。
 一方の尾張では、織田氏が全域を掌握しますが、今度はその織田氏がふたつに分裂して、岩倉織田氏が上4郡を押さえ、清洲織田氏は下4郡を地盤に、互いに激しく争いました。
 
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築城当時の面影を伝える樅の丸下の空堀
 
 
 冒頭に出て来た織田広近は岩倉織田氏の二代当主:敏広の二男で、兄の命で犬山に砦を築き、北面を守備したのが犬山城の始まりでした。
 同じ頃、清須織田氏の方では家老で一族の織田良信が力を付け、その子の信定の頃には主家を凌ぐ勢力になっていました。
 更にその子の信秀は主家を従え、岩倉織田氏も切り従えて、尾張をほぼ統一してしまいます。
その信秀の子で跡を継いだのが信長なのです。
 
 犬山城を本格的に整備した織田信康は信秀の弟で、信長の叔父にあたります。
 岩倉織田氏を従えた後、当主の信安(ほぼ傀儡)が拠る犬山に乗り込んで、その治政を補佐したそうですから、その時の改修だった様です。
 
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野面の石垣が築城年代の古さを覗わせます。 かなり大きな石も使われてますね。
 
 
 信康は兄:信秀を援けて織田家の戦いに奔走しますが、天文13年(1544)の斎藤道三との“加納口の戦い”で戦死してします。
 犬山城は子の信清が継ぎますが、信清は信秀の後継者の信長に反抗的だったため諍いが絶えず、永禄7年(1564)ついに攻め落とされ、信清は甲斐武田氏のもとに逃れました。
これにより犬山城は織田信長が直接支配する事となります。
 
 
その2 織豊期を彩った城主達 につづく