HKS48に後藤さんは3人居ますが、今回の後藤家は三重郡采女郷(現四日市市采女町)の後藤家です。
 
 
 後藤家は芥川龍之介の『芋粥』で知られる藤原利仁を祖とする播磨後藤家(のちの後藤又兵衛基次の家)の支流で、武家に多い藤原秀郷流の後藤家(幕末土佐藩の後藤象二郎など)とは異なります。
 
 平安末期に源頼朝に従って源平合戦に活躍した後藤氏は、戦後に播磨守護職を賜ります。
 その後藤氏と伊勢との繋がりにつては、
『文応元年(1260)後藤伊勢守基秀は先陣の武功あって三重郡采女(うねめ)郷の地頭職となる。』
…と、現地の案内板に書いてあるのですが、鎌倉時代でもこの時期は平和で、1247年の宝治合戦以来大きな争乱はなく、1260年の事件といえば日蓮上人が『立正安国論』を幕府に提起した事くらいですから、武功は考えられません。
 
 1246年の『宮騒動』に連座した後藤氏は、京の六波羅勤めに左遷されてしまうのですが、文応の頃は復権が進んでいた時期であり、その一環の人事と解釈しましょう。
 
 
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采女城遠景 内部川の蝕崖の丘にあり比高差は40mあります
 
 ともかく、京から一族で采女の地に移住した後藤家は、采女山に城塞(采女城)を築き、近隣との関係も良好に保って、以後15代300年あまりに亘り繁栄します。
 

 

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 連綿と続いていた後藤家も、采女正藤勝の時の永禄10年(1567)、織田信長の大軍の侵攻を受けます。
 この時は隣接する関家、神戸家と共闘し、堅城にも助けられて防衛に成功しますが、、永禄11年(1568)の戦いでは力尽き、ついに落城してしまい
ました。
 
 伝承によれば、城主藤勝は最後の刻を見定めると寡兵で果敢に討って出て討ち死にし、一人娘の千奈美姫も父の後を追って井戸に身を投げ、後藤家は滅亡したそうです。
 
 
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登城口にある城址碑

 

 
 
 
 
『采女城』を歩く
 采女城に向かいます。
 
 国道1号線の内部橋北詰めの交差点から堤防道路を北に入ると、正面に見える山がもう采女城址です。
 内部川沿いに走って行けば、城址の山の下に城址碑がありますが、そこを100mほど通り過ぎた左手に空き地があるので、そこにクルマを停めます。
 
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采女城縄張り図 三つの尾根に梯郭に郭が重なる見事な縄張りで、この規模の豪族にしてはかなり大規模な城です
虎口の配置からして、現在の登城路がほぼ大手だったのでしょうね。
 
 実はこの城址、個人的にはこの地域ではとっておきの城で、ブログでも満を持しての登場です!
 

 

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大手道に造られた木道を登って行きます
 
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普通に山の斜面に見えますが、肉眼では道の両側に武者走りの土塁が幾重にも重なってるのが見えます。
 
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大手門ともいえる五の郭の虎口(下から見る)
 
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五の郭の虎口(上から見る) キレイな枡形になっています
 
 
 何がそれほどスペシャルなのかと言えば、後藤家が滅んだ後の采女城が何ら開発の手が入る事なく、殆ど当時のままで遺されている事なのです。
 
 
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五の郭と一の郭の間の空堀と土橋 前方上が一の郭虎口です
 
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一の郭壇上は500坪はある平坦地です
 
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周囲は立派な土塁が巻いている
 
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土塁上の広さも規格外!
 
 普通に考えて、廃城になった広くて平らな城址の郭は恰好の耕作地に成り得るのですが、後世のそんな遺構は影も形もなく、雑木の樹林に守られる様に城址が大切に保存されています。
 
 
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一の郭と二の郭を隔てる空堀 規模も大きいけど、補修ナシでこの残存状態は奇跡です!
 
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二の郭も周囲を土塁で守られています
 
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北端となる三の郭の土塁
 
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二の郭と三の郭を隔てる空堀もよく残っています
 
 近年、近くには大型の住宅団地や霊園などが開発されていますが、采女城の城域だけは“聖域”でもあるかの様に、開発の波から守られています。

 

 
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三の郭から五の郭へと続く堀底道
 
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西に張り出す四の郭
 
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街道の監視機能だったと見られる八の郭
 
 おそらく、後藤家300年の治政が穏健なもので、領民にとってスペシャルな殿様だったのではないでしょうか?
 戦国の倣いで滅びたりといえども、その治政を懐かしむ領民の手で代々手厚く保護されて来たのでしょうね。
 
 
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千奈美姫が身を投げたという古井戸
 
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後藤家を慕う地元の人々のこうした伝承が、安易な入植や開発を拒み続けてくれたのでしょうね。
 
 その証拠に、現在の采女城には『采女城保存会』なる有志の団体があって、近隣のお年寄りの会なのですが、毎月城址の清掃や樹木のお世話をして下さっています。
訪れる子供達には采女城の遺構と歴史の説明もしているそうです。
 
 こうした方々が居るからこそ、遺産が後世に伝わり、安全に気持ち良く、当時に近い城の姿を見させて貰えるのです。
感謝!
 
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八の郭から見下ろす南東の風景
中央右の橋が国道1号線(東海道)で、その先には街道の難所“*杖衝き坂”があります。
前方の山の向こう側には、共に織田軍に抗戦した神戸家の高岡城があり、遠くには伊勢湾の海と知多の山々が見えます。
 
 
*杖衝き坂
 東海道の有名な難所の一つで、急な坂道が旅人を苦しめました。
その昔、東征からの帰路の日本武尊が、この坂を登るのに自らの剣を杖にしてやっと登ったのに由来する坂の名前です。
また、その時に
『我が足は三重に折れ曲がってしまうほどに、ひどく疲れた 』
と語った事から、この地を“三重”と呼ぶ様になったとも言われます。