『星川城』 桑名市星川
最後に星川城を訪ねます。
伊坂城からはさらに3km北上し、員弁川を渡った北岸に城址はあります。
位置的に春日部家が順次北へと侵攻し、最後に築城した城で、桑名衆と境を接する員弁川流域では激しい戦いもあったでしょうが、そうした記録や伝承にはまだ出会えていません。
位置的に春日部家が順次北へと侵攻し、最後に築城した城で、桑名衆と境を接する員弁川流域では激しい戦いもあったでしょうが、そうした記録や伝承にはまだ出会えていません。

星川城址の遠景
春日部家は近江六角の後藤家との繋がりも深く、おそらく六角勢の与力による拡張だったのでしょうね。
星川城の春日部家は詮義の弟の義資の系統が城主だった様ですが、いち早く1567年の信長の第一次伊勢侵攻の際に滝川一益によって落とされました。
星川城の春日部家は詮義の弟の義資の系統が城主だった様ですが、いち早く1567年の信長の第一次伊勢侵攻の際に滝川一益によって落とされました。
星川城の目印になるのは“三岐鉄道北勢線の星川駅”で、駅前に大きなスーパーマーケットがあるので、此処にクルマを置かせて貰います。
駐車場の西側を流れる小さな川が員弁川に注ぐ嘉例川で、その間に横たわる舌状台地の先端が星川城址です。
駐車場の西側を流れる小さな川が員弁川に注ぐ嘉例川で、その間に横たわる舌状台地の先端が星川城址です。

目の前の橋を渡るとすぐ城域なのですが、星川城の主郭部分は残念ながら公共性の低い形で完全に市街化されていて、『城見学に入ってくるな!』オーラが感じられます。

遠目には、土塁遺構の様にも見えるのですが…

写真中央の辺りには空堀らしき痕跡も
ともかく、城の北端だったろう場所にある『星川神社』を訪ねて手掛かりを探って見ます。

星川城址だったという右手の民家と隣接する星川神社
神社の場所が近辺で最高地なので、城の本丸は此処だったのではないか? 滝川一益に攻められた時、神社は城と共に焼け落ちたと言われるので、神社は本丸跡に再建されたんだと思います。


しかし残念な事に、神社にはその謂れや伝承を示す碑や看板は一切ありませんでした。
春日部家系図には厄介な事に、伊勢平氏を祖とするものの他に、紀長谷雄の紀氏を祖とするものが併存します。
紀姓春日部氏の本流は鎌倉時代には武蔵国(現埼玉県春日部市)を領地とした鎌倉御家人であり、本当は伊勢の春日部家も平氏の末裔ではなく、幕命で伊勢に下向した武蔵春日部氏の支流なのではないか…という短絡な解釈も出来ますが、それでは面白くないので、私は平氏説を採ります。
紀姓春日部氏の本流は鎌倉時代には武蔵国(現埼玉県春日部市)を領地とした鎌倉御家人であり、本当は伊勢の春日部家も平氏の末裔ではなく、幕命で伊勢に下向した武蔵春日部氏の支流なのではないか…という短絡な解釈も出来ますが、それでは面白くないので、私は平氏説を採ります。
ただ、戦国期に出て来る名前は紀氏の系図と一致するものが多く、紀氏説がデタラメだという訳ではありません。
では伊勢平氏からなぜ“春日部”なのかと言う考察になるのですが、ここでキーマンとなるのが“平盛国”です。

平盛国『大河ドラマ 清盛 より』 上川隆也さんが演じていましたね。
清盛の幼なじみで播磨の漁師の息子“鱸丸”という設定でしたが、
史実は伊勢平氏の一族で、清盛にとっては有力な親戚です。
清盛の幼なじみで播磨の漁師の息子“鱸丸”という設定でしたが、
史実は伊勢平氏の一族で、清盛にとっては有力な親戚です。
前述の様に、平盛国は清盛の執事を務めていましたが、清盛が大往生し、平家が敗走を始める頃には年老いて一線を退いていました。
壇ノ浦の後、捕虜となった盛国は平宗盛らとともに鎌倉に送られます。
鎌倉で尋問した源頼朝は、平家執事としての盛国の立派な態度に感嘆して、その一命を助ける事にして御家人の岡崎義実に預けます。
壇ノ浦の後、捕虜となった盛国は平宗盛らとともに鎌倉に送られます。
鎌倉で尋問した源頼朝は、平家執事としての盛国の立派な態度に感嘆して、その一命を助ける事にして御家人の岡崎義実に預けます。
しかし、その元での盛国は一切の発言と飲食を断ち、一心に法華経に向かい、程なく餓死自殺したと言われます。
享年74歳でした。
享年74歳でした。
頼朝はあくまでも主家に殉じた盛国のこの態度を称賛し、御家人達の心構えとして事ある毎に引用し語ったそうです。
そうした背景があり、盛国の子孫の改名に際して、鎌倉御家人の春日部家との間に血縁と名跡の授受があったのではないか…だから双方の系図が受け継がれているのではないか…と考える次第なのです。
伊勢・武蔵の春日部両家はその後も交流を続けていた様で、伊勢の春日部家は織田信長の伊勢侵攻で城を奪われた後も、織田信雄の配下で生き残り、江戸時代は尾張徳川家の家臣として武家の地位を守り通しました。
一方、武蔵の春日部家は宝治合戦で三浦泰村について一旦没落しますが、新田義貞のもとで復活し、戦国末期には岩槻太田氏、次いで北条氏に仕えて存続し、領地の春日部を守ります。
一方、武蔵の春日部家は宝治合戦で三浦泰村について一旦没落しますが、新田義貞のもとで復活し、戦国末期には岩槻太田氏、次いで北条氏に仕えて存続し、領地の春日部を守ります。
小田原征伐で豊臣秀吉に所領を追われた後は関東管領の与党として繋がりのあった上杉景勝を頼って一族で会津に向かい定住しました。
しかし、江戸時代後期には、伊勢の春日部家を頼ってその多くが伊勢に移住したのだそうです。
しかし、江戸時代後期には、伊勢の春日部家を頼ってその多くが伊勢に移住したのだそうです。