乃木さんの遺訓とは
 
 青山墓地には乃木さんの他にも日露戦争を戦った人たちが多数眠っています。
折角の機会ですから、幾人かのお墓を紹介します。
尚、馴染みの薄い人も居るかも知れませんので、ドラマ『坂の上の雲』の配役の写真とともに紹介します。
 
外務大臣:小村寿太郎(竹中直人)
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日英同盟の締結に奔走し、戦える基盤を造った。ポーツマス条約も全権で参加し調印した。後に日韓併合に尽力します。
 
 
連合艦隊参謀長:加藤友三郎少将(草苅正雄)
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秋山真之とともにT字戦法を提案し、日本海海戦を勝利に導く。
戦後は海軍大将まで務めたのち海軍大臣、21代内閣総理大臣を務める
 
 
第二艦隊司令官:島村速雄少将(舘ひろし)
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加藤友三郎の前任の参謀長、 ともに日本の海軍を勝てる艦隊に仕上げた功労者だが、終始無欲で、その後大将に昇進したが中央の政治の舞台に出る事はなかった。兵士には抜群に人気があったそうです。
 
 
陸軍騎兵第1旅団長:秋山好古少将(阿部寛)
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騎兵隊を率いて世界最強と言われたロシアのコサック騎兵隊を破って、世界的に注目を集めた。軍きっての酒豪
のちに大将に昇進し、元帥も打診されたが、本人が固辞したといわれる。
海軍の連合艦隊参謀:秋山真之の実兄
 
 
海軍:広瀬武夫少佐(藤本隆宏)
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将来の海軍を背負う男と嘱望されるも、旅順港閉塞作戦で廃船を湾口に沈める作戦中に砲弾を受け戦死、のちに軍神として祀られた。
ロシア駐在武官時代には、ロシア軍人の娘:アリアズナ(マリーナ・アレクサンドロワ)と親交があったと伝えられる。
 
 
日露戦争の英雄は他にも乃木さんの副官だった伊地知幸介、参謀本部長だった長岡外史なども眠っています。
探しながら巡ってみるのはいかがでしょうか?
 
 
 
 さて、本題に戻って…
日露戦争戦で命を賭けて日本を守ったこれらの英雄達は決して戦争好きだった訳ではありません。
 
 この戦争は前にも述べた通りに“防衛戦”で、もしも負けていたなら、ロシアは満州を領土化して、最低でも朝鮮半島までは進出したでしょう。
 旅順に代わる新たな不凍港を外洋に面した釜山に置くと、日本は常に直接の脅威に晒される事になります。
 日露戦争を資金で支えた英米も、負けた日本はもう利用価値がなく見捨てるしかありません。
 
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日露戦争開戦時のロシアの風刺画
国際的に見れば、手が付けられないほど強大化したロシアに対し、米英は日本に代理戦争をさせた側面は否めません 
 
 こうした覇権大国の拡大支配欲に敢然と立ち向かい、『肉を切らせてでも骨を断つ』戦いに敢えて切られに行った人達であり、純粋に日本と日本人を守りたい一心でのサムライ精神であったと確信します。
 しかし、日露戦争での勝利は、日本と日本の軍人を少し違った方向にも育ててしまいます。
 
 第二次大戦でのより熾烈な戦いと敗戦で、日本人はこれを大いに反省し、『戦争と軍備の放棄まで謳う極端な方向』に転換しました。
 
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 ある城址を訪ねたところ、上の写真の石碑に出遭いました。
今回取り上げた日露戦争で自ら国難に立ち向かい、犠牲となった戦没者の慰霊碑なのですが、よく見ると『征露忠死碑』征露がセメントで埋め潰されています。
 
 敗戦で戦争の愚を反省し、戦った相手国を刺激しないが為の日本人特有の気遣いなんでしょうが、そうした気持ちは果たして相手に伝わったのでしょうか?
 
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 中国が最もわかり易い例です。
戦後生まれの我々は平和教育で育ち、日中国交回復以来、中国の遅れた状況を見るにつけ、近代化に全面協力する事に何の疑問もありませんでした。
 天安門事件で国際世論にさらされ孤立した際にも、最初に救いの手をさしのべたのも日本ですが、それが中国人の眼にはどう映っていたのか?
 
『今の日本人はお人好しで甘い、スキだらけで反抗して来ない、軍事・政治的圧力を加え利潤を得るには格好の相手だ』
江沢民からの一貫した対日戦略は今も変わらず続いています。
 
 明治の先人達の様に、邪悪な外国の威圧には一命を賭しても決して屈しない、毅然とした姿勢を取り戻す事こそが、平和への近道に相違ありません。   
その上で、世界平和の実現に貢献して行けたなら、明治から進化した民族と言えるのではないでしょうか。