3.戦後の評価と最期のケジメ  
 
 1月5日、敵将ステッセルの降伏会見に臨んだ乃木さんは、彼の名誉を重んじ、帯剣のままの会見に応じました。
 会見はお互いの健闘を称え合う和やかなもので、従軍記者の求めにも写真は一枚だけしか認めず、それはまるで交流会の記念写真の様な、勝者・敗者の区別の無いものになっています。
 
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水師営での降伏会見後の写真  中央の二人が乃木さんとステッセルです
 
 
 こうした乃木さんの対応は外国の記者に驚きと感動を与え、日本の武士道の神髄が初めて伝わった好事例と言えます。
 
 この戦いで大損害を出し、一時は“愚将”の誹りを受けた乃木さんですが、実際のところ、双方の損害状況はどうだったのでしょうか?
 
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 互いにもの凄い死傷率なのが激闘を物語っていますが、それよりも驚くのは、環境が劣悪な攻め手の日本軍の死者がロシア軍よりも少ない事です。
 
 この数字は乃木さんが愚将どころか、とても上手く戦った事を示していると言えないでしょうか?
  この戦いでの敗北は日露戦争自体の敗北を濃厚にし、それは独立国日本の存亡に関わり、即ち以後はロシアへの隷属を余儀なくされる事になります。
 弾の飛んでこない日本からの無責任な批判はともかく、前線で日本の存亡を託された乃木さんには『何人死のうが戦うしかない、全員死んだとて勝たなければ意味がないんだ…』 という、もう人知を超越した壮絶な覚悟があった事でしょう。
 
 それは守備側のロシア軍将兵とて同じで、互いに死力を尽くして戦った敵将により親近感を覚えたとしても不思議ではない気がします。
 
 
乃木邸の一角に建つ厩
帰国したステッセル将軍は乃木さんへの感謝の気持ちから愛馬を贈りました。
乃木さんはたいそう喜んで、『壽号』と命名して愛用したそうです。
 
 
 旅順を落とした乃木さんの第3軍は、休む間もなく北上し、両主力が対峙する奉天の会戦に向かいます。
ここでも側面から鋭く突っ込んで、ロシア軍の陣形を破断した事で、敵将:クロパトキンに撤退を決意させ、ロシア軍は四平街まで退いて、ここで戦線は膠着します。
 
 しばらくして、回航していたバルチック艦隊が到着して、戦場は海に移りますが、ここでも日本の連合艦隊が圧勝し、ロシア海軍は壊滅した事から、日露戦争は日本の勝利で終結します。
 
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3万3千㌔を7ヶ月かけてやって来たバルチック艦隊は、待ち受けた連合艦隊によって一夜にして海の藻屑となりました。海戦史上稀有な一方的勝利でした。
 
 
 翌年1月に東京に凱旋した乃木さんへの歓迎ムードは凄まじく、新聞も連日詳報を伝えるほどでしたが、当の乃木さんに英雄意識などは微塵もありません。
 ただただ兵士をたくさん死なせてしまった事への贖罪意識、それは勝って、生きて帰って来たからこそ持てるものでした。
 
 到着後すぐさま宮中に参内した乃木さんは明治天皇の前で自筆の『復命書』を読み上げます。
 内容は将兵の忠勇を讃え戦没者を悼むものが殆どで、自身の作戦判断に話が及ぶにつれ様々な想いが浮かんで嗚咽が始まり、言葉にならず最期は泣き崩れてしまいます。
 気遣う明治天皇に対して死を賜る様に哀願する乃木さんでしたが、天皇の言葉は
『乃木の苦しみ、死にたい気持ちは良く分かる。だが今はその時ではない。 せめて朕が死んだ後にしてくれ…』でした。
 
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映画『二百三高地』より 天皇に復命書を読み上げる乃木さん
 
 こうした乃木さんの姿勢は外国にも伝わり、各国の皇室や政府から勲章が次々に授与されます。
『世界の軍人の中の軍人、サムライの中のサムライ』という事でしょうか。
 あろう事か、敵対したロシアでは、子供の名前に『ノギ』とつけるのが流行ったそうです。
 
しかし、彼らが乃木さんの本当の真髄を知るのは、もう少し後の事です。
 
 

 
 明治40年、一線を退いて軍事参議官だった乃木さんは、明治天皇のたっての希望で学習院院長に就任します。
つまり、皇太子の第一皇子:迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が入学する事から、その教育一切を委託されたという事です。
 
 明治45年(1912年)7月、ついに明治天皇が崩御されます。
9月初旬に迪宮裕仁親王を呼んだ乃木さんは、『よく熟読されますように』と言って、山鹿素行の本を渡しました。
 異変を感じた親王の『院長閣下はどこか行ってしまわれるのですか?』 という問いに、何も答えず微笑んでいたそうです。
 
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9月13日朝 自宅での乃木夫妻
 
 
 9月13日、明治天皇の大葬が終わった夜、赤坂の乃木邸で乃木さんは静子夫人と共に自らの命を絶ちました。
 明治天皇の遺影の前に正座した乃木さんは、軍刀で腹を十字に割ったあと、刀を膝に当て、喉の頸動脈を刺して前に倒れ込む形で絶命していたそうです。
 静子夫人も自らの懐刀を心臓に突き刺し、傍らに寄り添う様に絶命していました。
 
 これだけの事が行なわれたにも拘わらず、階下に寄宿する書生や女中達は全く気付かなかったほど、粛々と行われた『殉死』でした。
 
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乃木神社蔵
 
 
 乃木さんの前には遺書が置かれていて、軍旗を奪われた事、多くの将兵を死なせた事への贖罪が綴られていたと同時に、やっと死を赦されて明治天皇の元に行ける安堵が記されていました。
 また、遺書の宛名には静子夫人の名前もあった事から、夫人は自らの意志で後を追ったものと言われます。
事を知った静子夫人の気持ちもまたいかばかりであったか…。
 
辞世は
『神あがり あがりましぬる大君の みあとはるかに をろがみまつる』
 
つい百年ほど前の出来事。 国難に殉じたラスト・サムライのけじめのつけ方です。
 
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旧乃木邸脇に建つ乃木神社 乃木さん夫妻を祀っています