2.日露戦争~その極限の戦い
乃木さんが動員令を受け陸軍に復帰したのは、明治37年(1904年)2月の事で、もう55歳の時でした。
折しも日露戦争開戦の直前で、実績から請われての復帰となります。
折しも日露戦争開戦の直前で、実績から請われての復帰となります。

青山墓地に次いで、旧乃木邸を訪ねました。
外苑東通りに面し六本木方面に緩やかに下って行くこの周辺は、乃木さんにちなんで“乃木坂”と呼ばれています。

邸内は震災改修中で、来春まで入場できません。 残念。

都のHPから乃木邸の写真を借ります 雰囲気を感じてください
日露戦争の背景についてはドラマ『坂の上の雲』などで詳しく描かれているので、言及を避けますが、日本という小国が単独で当時最大の超大国ロシアの威圧に屈せず戦った、国の存亡を賭けた窮鼠の総力戦でした。
乃木さんに与えられた使命は、第3軍司令として前線で戦闘を指揮する事です。
日露戦争は海を隔てた中国大陸で行なわれた訳ですが、日本側の補給を考えると、制海権の確保は必須でした。
日露戦争は海を隔てた中国大陸で行なわれた訳ですが、日本側の補給を考えると、制海権の確保は必須でした。

日露戦争の会戦エリア
日本軍は仁川から上陸し、ロシア軍を北へ押して行き、奉天で終戦を迎えます。
ハルピンまでは攻め寄せていないのですが、兵站線はこれでもう目一杯でした。
ロシアは遼東半島の旅順に“旅順艦隊”を配備し、日本の“連合艦隊”と対峙していましたが、数で劣勢のため、北欧のバルト海から主力のバルチック艦隊を回航して、有利な決戦を行なうべく、旅順艦隊を港内に温存します。
旅順港は低い山に囲まれた港湾で、湾口には砲台陣地が無数に配備され、敵の艦船を寄せ付けず、陸側の山々にはトンネルで連結された強固な要塞が構築されていました。
乃木さんの第3軍に与えられた使命は、
・バルチック艦隊が来る前に、この旅順要塞を陸から攻撃し奪取する事
・またその後に港内の旅順艦隊を追い出すか壊滅する
…という極めて困難なミッションでした。

NNKドラマ『坂の上の雲』では柄本明さんが乃木さんを演じました
司馬遼太郎は乃木さんを批判的に描いていましたね。
理想主義にあった当時の文壇の眼も批判的な人が多かった様ですが、理想を語るだけでロシアの南下を食い止める策など誰も持ち合わせてはいませんでした。
日露戦争には、軍人となっていた乃木さんの二人きりの息子も従軍しており、親子3人での出征ですが、第3軍が広島を出港する前に、長男:勝典の南山会戦での戦死の報を受けます。
粛々とその事実を静子夫人に電報で送った乃木さんは、併せて『棺桶が三つ揃うまで葬儀は待つ様に』とも書いていたそうです。
粛々とその事実を静子夫人に電報で送った乃木さんは、併せて『棺桶が三つ揃うまで葬儀は待つ様に』とも書いていたそうです。

乃木さんが長男:勝典の誕生日に贈った手紙
故郷の師:吉田松陰の教えを守り、精進する様激励しています
6月に中国に渡った第3軍の編成は第1師団と第11師団からなる51,000の兵力で、新たに大将に昇進した乃木さんが指揮します。
対する旅順のロシア軍はステッセル将軍が率いる63,000の兵力で籠城しています。
ロシア側は砲撃に耐えうる強固な陣地を構え、最新の機関銃など大量の武器弾薬を配備して、『3年は耐えて見せる!』と豪語していたそうです。
対する旅順のロシア軍はステッセル将軍が率いる63,000の兵力で籠城しています。
ロシア側は砲撃に耐えうる強固な陣地を構え、最新の機関銃など大量の武器弾薬を配備して、『3年は耐えて見せる!』と豪語していたそうです。
攻城戦は普通3倍以上の兵力がないと成功しないと言われますが、兵力も少なく武器の質も劣る日本軍がいかにすれば数ヶ月で攻略できるのか…
乃木さんだけでなく、第3軍のすべての将兵が死を覚悟したと思います。
8月から始まった戦闘は予想通りの大苦戦となります。
砲弾の効かない無数の要塞陣地を攻め取るには、犠牲を払いながらも突撃して乗り込むしか方法が無く、昼夜を問わず総攻撃を敢行しますが、登り坂のうえ陣地手前の鉄条網に阻まれてるうちに敵の機銃掃射でバタバタ倒され、
なんら戦果を挙げる事なく死体の山を築く事になり、作戦を停止します。
砲弾の効かない無数の要塞陣地を攻め取るには、犠牲を払いながらも突撃して乗り込むしか方法が無く、昼夜を問わず総攻撃を敢行しますが、登り坂のうえ陣地手前の鉄条網に阻まれてるうちに敵の機銃掃射でバタバタ倒され、
なんら戦果を挙げる事なく死体の山を築く事になり、作戦を停止します。

乃木さん愛用の単眼鏡(乃木神社蔵)
なぜ単眼かといえば、乃木さんは左目の視力がほとんど無かったそうです
少年時代に、なかなか起きない乃木さんに怒った母親が蚊帳を投げ付け、留め金で眼を傷つけてしまいました。
視力は年々落ちて行きましたが、嫡子である自分を傷つけた母を守りたい一心で、誰にも言わずに隠し通したんだそうです。
乃木さんの通夜の日に妹が初めて公にした話です。
敵陣に砲撃を続けて、少しずつでも弱らせて行く為に、本部に砲弾の補充を要求しますが、必要な量の補給はなされませんでした。
そうするうちに戦場では冬を迎え、戦死に加えて病死や凍死者が相次ぎ、その犠牲者数は1個師団の壊滅に等しいものになりました。
そうするうちに戦場では冬を迎え、戦死に加えて病死や凍死者が相次ぎ、その犠牲者数は1個師団の壊滅に等しいものになりました。
戦果を出せない乃木さんには軍部内だけでなく、身内の戦死に憤る市民からも批判が相次いで、文頭の投石騒ぎになり、辞任や切腹を要求する手紙が2,400通も寄せられたといいます。
軍部も堪らず乃木さんの更迭を御前会議に具申しましたが、明治天皇は頑として認めませんでした。
軍部も堪らず乃木さんの更迭を御前会議に具申しましたが、明治天皇は頑として認めませんでした。

映画『二百三高地』より 明治天皇役の三船敏郎さん
『ならん! 乃木の他に誰がおる! 更迭したら乃木は死ぬ! 乃木を死なせてはならん!!』
『ならん! 乃木の他に誰がおる! 更迭したら乃木は死ぬ! 乃木を死なせてはならん!!』
11月になると、強力な援軍がやって来ます。
まず日本の沿岸防備に配備されていた28センチ榴弾砲が逐次投入され、計18門が揃っていました。
この大口径砲の威力はすさまじく、直撃して吹っ飛ぶ敵陣地があり、この中でロシア軍副将のコンドラチェンコ少将が戦死し、ロシア守備兵の戦意に多大な影響を与えます。
まず日本の沿岸防備に配備されていた28センチ榴弾砲が逐次投入され、計18門が揃っていました。
この大口径砲の威力はすさまじく、直撃して吹っ飛ぶ敵陣地があり、この中でロシア軍副将のコンドラチェンコ少将が戦死し、ロシア守備兵の戦意に多大な影響を与えます。

要塞の破壊に効果を挙げた28センチ榴弾砲による攻撃 制海権の確保がこうした作戦を可能にしました
さらに派遣軍の参謀長をしていた旧友の児玉源太郎が駆け付け、乃木さんを補佐します。
二人は相談の結果、攻め口を『二百三高地』の一点集中と決めました。
二人は相談の結果、攻め口を『二百三高地』の一点集中と決めました。

映画『二百三高地』より
乃木さんを演じた仲代達矢さんと児玉源太郎役の丹波哲郎さん
乃木さんを演じた仲代達矢さんと児玉源太郎役の丹波哲郎さん
もう一人、乃木さんを助けたのは二男の保典でした。
保典は第1師団の伝令将校をしていましたが、職務の最中にロシア砲の至近弾を受け戦死してしまいます。
この報を受けた乃木さんは
保典は第1師団の伝令将校をしていましたが、職務の最中にロシア砲の至近弾を受け戦死してしまいます。
この報を受けた乃木さんは
『よく死んでくれた、これで少しは兵士の親に顔向けができる…』
と、誰にともなく呟いたそうです。
この報は国内にも伝わり、乃木さんに同情的な論調が生まれます。
『一人息子で泣いてはすまぬ 二人亡くした人もいる』

乃木夫妻の対面で、ともに眠る勝典、保典兄弟の墓
二百三高地の集中攻撃は功を奏し、次々に陥落するロシア陣地が出て来ました。
12月5日についに二百三高地を占領した日本軍は、此処に着弾観測所を設け、遠隔砲撃で港内の旅順艦隊を壊滅させます。
ついで運び上げられた山砲を使った背後からの砲撃で、ロシア陣地は次々に陥落して行き、明治38年1月1日、ロシア軍のステッセル将軍はついに降伏を申し入れました。
12月5日についに二百三高地を占領した日本軍は、此処に着弾観測所を設け、遠隔砲撃で港内の旅順艦隊を壊滅させます。
ついで運び上げられた山砲を使った背後からの砲撃で、ロシア陣地は次々に陥落して行き、明治38年1月1日、ロシア軍のステッセル将軍はついに降伏を申し入れました。
3.戦後の評価と最期のケジメ につづく