東京本社の仲間との忘年会のために出張を組み、都内で一泊しました。
泊まったホテルが赤坂だったので、翌朝ふと思い立って青山墓地に乃木さんの墓参に訪れました。
 
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陸軍大将:乃木希典
 日露戦争で名前は聞いた事があると思いますが、近現代の日本人にとっては、大恩人かも知れません
 
 
 普段は死を賭して戦った戦国武将ばかり追掛けていますが、今回は明治の日本人に“戦国武将の心を持った軍人”として絶大な人気があった『陸軍大将:乃木希典(まれすけ)』を取り上げてみます。
 
 『名将:乃木大将』の国民的人気は実は日露戦争終結後の明治38年以降の事で、その直前の“旅順要塞攻防戦”の時点では、無為な肉弾突撃を繰り返し膨大な死傷者を出した乃木さんへの国民の不満は頂点に達していました。
『愚将』の誹りだけでなく、赤坂の自宅は連日の様に群集に囲まれ、投石が相次いだそうです。
 
 しかし戦いが勝利に終わって、兵士の口からこのミッションの過酷さが伝わり出すと、勝つ事の重大さと、それをもたらした乃木さんへの評価は一転します。
日本人のヒーローとなった乃木さんですが、決してそれに驕る事はなく、むしろ武人としてのケジメを常に考えていた様です…。
 
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青山墓地の一角にひっそりと佇む乃木さんの墓所
 
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乃木さん:右と静子夫人:左の墓石
国家存亡の大戦争のヒーローにしては質素すぎる自然石の墓石ですが、死後百年が経っても、いつ訪ねても供花が絶える事はなく、いかにも乃木さんらしい風情です
 
 
 
1.乃木さんの略歴を紹介します。
 乃木さんは嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州の長府藩士・乃木希次の三男として、江戸屋敷で生まれています。幼名は無人(なきと)でした。
幼年期は虚弱な体質で気も弱く、よく友人達に泣かされていたそうです。
 
 10歳のとき父が国元勤めになった為、共に長府に戻り、13歳で元服し、名を源三とします。
元治元年、16歳の時に単身で萩に赴き、親戚だった玉木文之進の元に寄宿しながら萩藩の藩校・明倫館で学び始めます。
 
 慶応元年、第二次長州征討が始まると、長府へ呼び戻され、長府藩報国隊で小部隊を率いて小倉口での戦い(小倉戦争)に加わります。
この時、奇兵隊の山縣有朋の指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げ、名を知られる事となります。
 
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小倉城復興天守
奇兵隊の攻撃に耐え切れなくなった小倉藩:小笠原家は、城に火をかけて退去し、落城してしまいます
 
 そのせいか、藩命でその後の戊辰の戦いには参戦せず、維新前後はひたすら兵学の勉学に明け暮れる、士官候補生の暮らしだった様で、それに飽き足らない乃木さんは、何度も脱走・参陣を試みますが、その都度捕まって連れ戻されたそうです。
 
 明治4年、22歳で帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台に配属されますが、これは山縣有朋の曳きによるものらしく、名古屋鎮台勤務を経た明治7年には陸軍大臣:山縣の秘書官になっています。
*山県有朋は武田四天王の山県昌景の子孫を自認していたそうです
 
 明治8年、熊本鎮台に転勤すると翌年に起こった“秋月の乱”平定戦に活躍します。
 翌明治10年に西南戦争が勃発すると、熊本第14連隊を率いて出陣し、ここでひとつの事件が起こります。
熊本郊外の植木で200名の兵で400名の西郷隆盛軍と対戦した連隊は大苦戦を強いられます。
 
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西南戦争激戦の舞台となった熊本城
明治新政府の元では、九州の治安を守る「熊本鎮台」となっていました
谷干城率いる熊本鎮台は西郷軍の猛攻撃を凌ぎ切りました
 
 農民出身者中心の政府軍に対し、相手は泣く子も黙る薩摩藩士の精鋭部隊… 『♪敵の大將たる者は 古今無双の英雄で 之に從ふつわものは 共に慓悍決死の士 鬼神に恥じぬ勇あるも…』 で、無理もない事です。
*陸軍分列行進曲『抜刀隊の歌』より
 
 やむなく撤退を指示した乃木さんでしたが、引き際に連隊旗手が討たれ、連隊旗が西郷軍に奪われてしまいます。
 当時、明治天皇から直接下賜される連隊旗は今では考えられないほど大事なものとされ、連隊全滅以上の恥辱だった様で、乃木さんはその場で割腹を試みますが、此処は同僚の児玉源太郎少佐の手で諌められました。
 
 陸軍でも、この件に関する過失は問われる事なく、一切不問とされたのですが、乃木さんの心に癒す事の出来ない大きな傷を残す事になります。
 
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乃木さんが最も尊敬してたという楠正成の像
国史学者・笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木さんを評しており、伏見宮貞愛親王も」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べています
 
 
 そんな事もあってか、中佐に昇進した乃木さんは突如として花街に入り浸る放蕩時代に入ります。
 心配する周囲に結婚を奨められ、静子夫人を迎えますが、当日も料亭から祝言に向かい、遅刻する有様だったそうです。
 
 明治13年、大佐に昇進すると、明治16年には東京鎮台参謀長に任じられ、翌年には少将に昇進しました。
この頃に長男と二男が誕生しています。
 明治20年、政府の命令でドイツに1年半留学します。
ここでドイツ軍の軍紀の確保と綱紀粛正・軍人教育について深く学んだ乃木さんは思う所があったのか、その後二度と花街に通う事はなかったそうです。
 
 第11旅団(熊本)に帰任した乃木さんは、近衛歩兵第2旅団長(東京)、歩兵第5旅団長(名古屋)と転任しますが、第3師団長・桂太郎と合わず、明治25年、病気を理由に辞表を出して休職に入ります。
 栃木県の那須に土地を購入した乃木さんは本格的に農業に勤しんだと言われ、この後も度々休職して那須で過ごしています。
 
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名古屋城御深井丸にある“乃木倉庫”
弾薬庫ですが、乃木さんが歩兵第5旅団長の頃の建物である事から、そう呼ばれています。
太平洋戦争の時、本丸御殿の障壁画などは此処に疎開していたため焼失を免れました。
 
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休職して農業に励んだ那須野旧宅 
那須乃木神社として現在も残ります(那須塩原市HPより)
 
 
 翌年、東京の歩兵第1旅団長に復職すると、明治27年には日清戦争が始まり、大山巌が率いる第2軍の下で出征します。
大連に上陸した第1旅団は、破頭山、金州、産国、和尚島で戦い、旅順要塞をわずか1日で陥落させました。
 翌年は蓋平、太平山、営口、田庄台で戦い、連戦連勝の活躍で『乃木の右に出る者なし』とまで称賛されます。
終戦間際の4月には中将に昇進し、仙台の第2師団長となりました。
 帰国後の8月には男爵を授けられ、華族にも列せられます。
 
 明治28年、乃木さんは清国より割譲された台湾に第2師団を率いて遠征し、治安回復に努めます。
1年ほどで帰還した乃木さんを待っていたのは台湾総督の椅子でした。
 
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台北市の旧台湾総督府の建物
現在も台湾政府の総統府として使われています
 
 台湾総督の仕事は、総じて日本人官吏に厳しく臨んだ為、部下との衝突が絶えず、結局は1年あまりで辞任する形で終わりますが、台湾人にはとても評判が良く、後任が旧知の児玉源太郎だった事もあって、後々の総督も倣う事が多かった様で、今日の親日国台湾に繋がっていると言われています。
 
 帰国して休職し、那須に籠っていた乃木さんですが、明治31年(1898年)、第11師団長(善通寺)として復職しました。
しかし、明治34年(1901年)には部下が関与した馬蹄銀事件の責任を取って辞表を出し、最長の3年近い休職に入ります。
 
 
2.日露戦争~その極限の戦い  につづく